1253年 – 32歳「『日蓮宗』を広めるため、再び鎌倉へ」
房総半島を巡る過程で武士の富木常忍が信者に
日蓮は清澄寺を追い出された後、房総半島を巡って説法をしていましたが、その途中で領主の執事であった富木常忍という武士が日蓮の信者になりたいという旨を申し出たのです。これをきっかけに、太田乗明、曾谷教信、金原法橋という武士達も日蓮の信者として加わっていくのでした。
日蓮宗を広めるために鎌倉へ
これから日本人を救うために日蓮宗を世に広めたいと考えた日蓮は、やはり日本の要所・鎌倉幕府の置かれた鎌倉に行くべきだと考えます。そして、信者となった武士達に相談し、資金を援助してもらい、行徳の浦から船に乗り、六浦の港(現在の横浜市金沢区六浦)に到着し、朝比奈切通しを越えて鎌倉へと入るのでした。
1260年 – 39歳「『立正安国論』を北条時頼に提出」
1257年に大地震が起き、災害が多発する原因は経典の中にあると推察
1257年8月23日、鎌倉で大地震があり、多くの民家が倒壊し、日蓮の草庵も潰れるという大惨事に至りました。この年の前後には、大火事、巨大台風、大洪水、山崩れ、伝染病と大きな災害が続いたのです。
日蓮はこの原因を解明する鍵は経典の中にあると考え、1258年に、駿河の岩本にある実相寺の経蔵にこもって大災害の起こる原因がしたためられた経典を探しました。日蓮は2年間経蔵にこもって「三災七難」の起こる原因を記した経典を見つけ出したのです。
「立正安国論」の執筆
日蓮は見つけだした経典を元に、「立正安国論」という建白書を幕府に提出することを決意します。この立正安国論の内容を簡単に説明すると、「近年の天変地異によって人々が不幸に見舞われるのは間違った仏教がはびこり、法華経の教えに背いているためと考えられます。この先も法華経の教えをないがしろにすると、さらなる大災害に見舞われ、日本は滅びます。」ということでした。
そして、「法然が浄土三部宗だけを選び、他の経典を顧みようとしないため、この国から善い神がいなくなり、悪い鬼だけが残るようになったのです」と法然を名指しで批判したのです。
「立正安国論」を北条時頼に提出するも、揉み消される
日蓮は1260年、完成した「立正安国論」を北条時頼に提出しましたが、揉み消されてしまいました。その理由としては単にその内容に反対したわけではなく、この建白書が表に出ると、他の宗派の信者から日蓮が殺害される恐れがあると予想したからと言われています。
しかし、建白書が揉み消されたにも関わらず、それを日蓮が書いて幕府へ提出したという情報がどこかから漏れ出たのです。
1260年 – 39歳「松葉谷の法難、伊東への流罪」
松葉谷の草庵に暴徒が押し寄せる
「立正安国論」を幕府に提出してから41日目、松葉谷の草庵へ暴徒が訪れることになります。その際、ちょうど安房国から朋友が2人駆けつけ、暴徒が草庵へ向かってくることを偶然発見したため、日蓮へその事実を知らせ、難を逃れることになりました。
険しい裏山から逃げた日蓮は崖で立ち往生しますが、記録によると、白い猿に助けられて安全なところへ避難させられたとされています。この日蓮が避難した岩穴は現在、猿畠山法性寺としてお寺が建てられているのです。
伊東への流罪が決定
襲撃から逃れた日蓮は一度、下総国へ帰りましたが、1261年5月、再び鎌倉へと向かいます。しかし、日蓮が鎌倉へ帰ってきたことはすぐに執権・北条長時にも知られることになりました。
そして、役人が日蓮の草庵を訪れ、北条長時の命令によって日蓮を縄で縛り、由比ヶ浜から小船に乗せて伊豆の伊東へと流したのです。行き先は伊東の領主・伊東八郎左衛門預かりとなり、実質上の流罪を受けることになりました。
「まないた岩」の上に連行され、死の瀬戸際に遭う
領主預かりとなった日蓮でしたが、その後すぐに役人が領主の館を訪れ、日蓮を伊東の港の沖にある「まないた岩」へ連れて行きました。「まないた岩」は満潮になると海中に沈んでしまう場所であったため、実質上の死刑ということだったのです。
日蓮は自らの命を仏の導きに任せるとして、「まないた岩」の上で「南無妙法蓮華経」を唱え続けました。すると、伊豆の川奈という場所に住んでいた弥三郎という人物がたまたま船で通りかかり、日蓮を助け上げたのです。そして、役人に目をつけられる危険を犯しながらも、日蓮を自宅へと匿うのでした。
1263年 – 42歳「伊東流罪を北条長時に許される」
伊東の地頭・庄司祐光(伊東八郎左衛門祐光)の病気を治す
1261年、日蓮が弥三郎に救われ、生きているという情報が伊東の地頭・庄司祐光の元へ届くと、祐光は部下を連れて日蓮を捕らえようとしました。しかし、日蓮の説法によって信者となっていた村の漁師たちが役人たちに対して抵抗し、事なきを得たのです。
その後、祐光は大病にかかり、日蓮を捕らえるどころの騒ぎではなくなってしまい、そのことが日蓮にも伝わります。そして、日蓮は祐光の館へと赴き、枕元で「南無妙法蓮華経」を唱えたのです。すると、祐光はたちまち健康を取り戻し、この不思議な現象が日蓮のお経によるものだと悟ると、日蓮に対して信心を持つようになるのでした。
執権・北条長時に伊東流罪を許されることに
祐光が日蓮に心を許してから2年後の1263年、北条時頼や庄司祐光らの計らいによって、執権の北条長時にも日蓮の行いが伝わり、伊東流罪を許されることとなったのです。そして、鎌倉の松葉谷草案へと戻ることになるのでした。
また、かねてから日蓮に好意を抱いていた北条時頼の働きによって、日蓮宗が鎌倉幕府に認められることになったのです。
1264年 – 43歳「重病の母を見舞いに安房国へ、小松原にて法難を受ける」
母の看病のため安房国へ帰郷
鎌倉で信者を続々と増やしていた日蓮でしたが、ある日2人の朋友が母の重篤の知らせを届けにきました。その知らせを聞いた日蓮は母の看病のため、安房国へと帰郷することになります。母の臨終には間一髪で間に合いましたが、看病の甲斐も虚しく、母はまもなく亡くなってしまうのでした。
その一方で、故郷の地頭である東条景信が日蓮が帰郷していることを聞きつけ、成敗の準備に取り掛かります。そして、日蓮が天津城主に会見するという噂を知り、その道中を狙うことになるのでした。
天津への道中には東条景信がいる東条郷を通過しなければならず、その道を進む過程で、日蓮が近づいているという情報が東条景信にも伝わってしまうのでした。そして、途中の小松原で景信一行に襲われることになります。この際、日蓮は頭に傷を負い、左手を骨折しました。同行していた鏡忍房が討ち死に、駆けつけた工藤吉隆も重傷を負い、その後亡くなるという事態に陥るのでした。
1268年 – 46歳「蒙古襲来」
フビライ・ハンからの使者が九州の太宰府へ訪れる
1268年には、蒙古を治めるフビライ・ハンからの使者が九州の太宰府へ訪れるという「蒙古襲来」が起こります。使者が太宰府を訪れ、蒙古と日本の国交を求める文書を突きつけてきたのです。仮にこの条件を断った場合は蒙古が日本へ攻め込むという内容も記載されていました。
当時の執権・北条時宗は幕府の重臣たちと会議を開き、対策を練りましたが、結局、状況を甘く考え、返事を返しませんでした。
「立正安国論」の予言が的中する
日蓮はこの事実を知ると、幕府の高官に対して、「立正安国論」に関する書状を送ったのです。1260年に書かれた「立正安国論」のなかに蒙古のような外敵の侵入が起こるということが予言されており、この国難に対して、政治と仏教を統一して乗り切らなければならないと意見しました。
しかし、この申し出は握りつぶされ、なかったことにされてしまったのです。そのため、日蓮は「立正安国論」を改訂し、1271年にもう一度幕府へと送りつけました。その際に、侍所の別当・平左衛門尉頼綱にも手紙を出したのです。
竜の口刑場での雷鳴
手紙を読んだ頼綱は日蓮の考えに全く賛同せず、捕らえて刑に処すことにしました。日蓮は刑場に連行されていく途中、鶴岡八幡宮の前を通りかかります。そこで、「八幡大菩薩が誠の神ならば日蓮を救え、さもなくば教主釈尊に申しつける」と怒鳴りました。
その夜中、日蓮は縛り付けられた状態で由比ヶ浜を通り、竜の口刑場へと連行されました。しかし、斬首を担当させられた太刀取り役の越智直重が刀を八双に構えると、突然雷鳴が轟き、越智の刀を3つに割いたのです。このことに怯えた役人たちは遂に日蓮の首を切ることができませんでした。