日蓮とはどんな人?生涯・年表まとめ【日蓮宗の歴史、性格や名言、波乱万丈の人生を紹介】

日蓮の年表

1222年 – 0歳「日蓮の誕生」

安房国にて日蓮が誕生、その際に3つの奇跡が重なる

現在の鯛ノ浦の景色

日蓮は1222年2月16日、安房国長狭郡東條郷片海(現在の千葉県鴨川市)に誕生しました。父は貫名重忠、母は梅菊(諸説あり)という名前で、日蓮の幼名は善日麿と名付けられます。

日蓮が生まれた日には3つの奇跡が同時に起こったとされ、その3つとは、井戸の脇から清い水が流れ出したこと、近所の入江に白い蓮の花が咲き乱れたこと、港の海に鯛が多数跳ねていたことです。この事象は地元に人々の間で話題となりました。

貧富の差に心を痛めるように

格差社会は現在でも多くの地域ではびこる

日蓮が生まれた片海という地域は内陸の村に比較すると、貧しい家庭が多くありました。そのため、農村地へ遊びに行った際には軽蔑の目で見られることもあったのです。日蓮は幼いながらもそのことに気がつき、世の中に貧富の差があることを嘆くようになりました。

実際にこの時代には武士や地主が巨大な富を抱えている一方で、雇われている人々はどれだけ働いても生活に困窮するというような構図が成り立っていました。身分社会が出来上がっており、それを崩す事は叶わなかったのです。

1228年 – 7歳「漁業の手伝いをするかたわらで、父から勉強を教わる」

海の子供として仕事を手伝うように

日蓮は幼少期から漁師の仕事を手伝っていた

日蓮は7歳になった頃から漁師の仕事を手伝うようになる一方で、勉強にも興味を示すようになりました。

しかし、当時は裕福な家の子供しか寺での教育を受けられなかったため、父が直接勉強を教えることになります。父・貫名重忠は元々は武士として勤めており、世間一般の教養が備わっていたため日蓮に勉強を教えることができたのです。この時、父が教えたことを次々に吸収していく日蓮を見て、周囲の大人は舌を巻くようになるのでした。

1233年 – 12歳「清澄寺で修行を行うことに」

貧しい人でも寺院に参拝できるように、自らが僧になることを決心

この時代、貧しい人々は道端の仏像に手を合わせていた

日蓮の生きていた時代は、身分の高いものだけしか寺院に参拝することを許されていませんでした。そのため、日蓮の周囲に人々は日の出を拝んだり、道端の仏像に手を合わせたりすることで信仰を行っていたのです。

日蓮はこの状況を見て、貧しい人でも寺院を参拝できるようになるためには自分が僧となって寺を作れば良いと考えました。そして、修行をするために天台宗の寺院「清澄寺」へと赴くことになるのです。

雑用の合間にお経を暗記

最初の頃は掃除などの雑用ばかりだった

日蓮はお寺の雑用をこなすことに慣れると、弟子たちのあげるお経を外から盗み聞きするようになりました。通常では1年かけても覚えることが困難な経文を、日蓮は雑用の合間に聞いて覚えてしまったのです。そして、雑用をする際に口ずさむようになりました。

これをたまたま聞いた和尚・道善房が日蓮に対し、本堂へ上がってお勤めをすることを許すようになります。ことわざに「門前の小僧習わぬ経を読む」がありますが、まさに日蓮はこの言葉通りのことを成し遂げてしまうのでした。

「日本第一の智者となしたまえ」

虚空蔵菩薩

実際に本堂での修行に参加してみると、想像していたよりも経文の勉強が難しいということに気づきます。雑用をこなしながら、ほぼ徹夜のように勉強に励みましたが、簡単には身につかず、落胆するようにもなっていきました。

このことを悩んだ日蓮は清澄寺の御本尊「虚空蔵菩薩」に向かって毎日お経を唱えるようになりました。その時にお願いしていたのが「(私を)日本第一の智者となしたまえ」だったのです。

1237年 – 16歳「出家し、蓮長という名前を授かる」

清澄寺の後継として見込まれ、出家を許される

蓮の花

日蓮の時代は武士や貴族などの身分の高いものしか出家を許されていませんでした。しかし、清澄寺の和尚・道善房は聡明で我慢強い日蓮を最澄寺の後継として育てたいと思うようになっていたのです。そして、日蓮が16歳になった時に、出家を勧め、「蓮長」という名前を授けることになるのでした。

道善房は、「蓮の茎が天高く伸び、それとともに蕾が大きく育つ」という意味を、日蓮にも大きく育って欲しいという願いを込めて「蓮長」と名付けたのでした。

他の宗派の勉強をするため鎌倉へ

宗教の勉強のため鎌倉へと出た日蓮だったが、得るものは少なかった

天台宗以外の宗派を勉強するために鎌倉へとやってきた日蓮は方々の寺院を周り、禅宗や念仏宗の教えを勉強しました。18歳と年の若い日蓮はバカにされたり、門前払いされたりすることもありましたが、めげずに研究を重ねていきます。

当時の鎌倉では禅宗の「潔い生死」に焦点を当てた教えが広まっており、その方面の知識を多く得ることになりましたが、結局5年間の鎌倉滞在で得られた仏の教えはは微々たるものに留まりました。

1242年 – 21歳「比叡山にこもって修行」

日本最大の寺院「比叡山」で修行の日々

比叡山延暦寺

比叡山は天台宗の総本山かつ、さまざまな宗派の修行の中心地で、法然、親鸞、道元らもここで修行をしました。日蓮はその中で無動寺という寺を訪ね、総学頭の俊範に支持することになります。俊範は道善房の弟子であったため、日蓮の修行の申し出を快く引き受けました。

日蓮は2年間の修行ののちに、その優秀さを買われ、横川の定光院を預けられることになりました。そして、定光院で1人の修行の日々が再び始まるのです。横川の定光院は比叡山の一番奥深いところにあり、同じく横川にある常行三昧堂では親鸞が20年もの間1人寂しく修行をしていたという話が残っています。

1253年 – 32歳「比叡山での修行を終え、清澄寺へ帰還」

比叡山での12年間の修行を終えて、清澄寺へ

法華経の教えの一部

日蓮は12年間比叡山で修行を続け、法華経八巻二十八品、7万字の仏の教えを霊験によって悟ることになりました。そして、最澄の戒め「天台の修行をする者は、12年間山を降りてはならない」を守り抜き、清澄寺へと帰ることになったのです。

清澄寺へ帰ると、比叡山での修行の様子や、京都や奈良の寺院を周ったことなどを道善房に話しました。しかし、他の宗派に対して自分が考えたことに関しては胸の中にしまっておくのでした。

「日蓮」と改名

日蓮が拝んだとされる清澄寺の日の出

日蓮は清澄寺へ帰ってくると、3日ほどの休息を取り、その後、清澄山のお堂にこもり、7日間全く外に出ず、飲まず食わずで過ごし、瞑想にふけりました。そして、7日間たった日の早朝に朝日に向かって合掌すると、自らの体が太陽に光で包み込まれる思いがしたのです。

その時に日蓮は無意識のうちに「南無妙法蓮華経」というお経を唱えていました。このお経は「法華経の仏法をひたすら帰依する(信仰する)」という意味です。そして、この出来事をきっかけにして自らの名前を「日蓮」と改名することになるのでした。これが1253年4月28日(日蓮宗の開宗記念日)のことです。

日蓮が初めて説法を行う

ブッダの像 ブッダも初説法の前に断食を行った

初の説法で、自らを「日蓮」と名乗り、念仏宗ではなく法華経を勧めるということを説くと、周囲からは反発の声が多く上がりました。その当時、死後の世界を極楽にしてくれる念仏宗が主流だったため、それを否定する説法に多くの人々が反対だったのです。特に、この清澄寺を取り締まっている地頭の東条景信は怒りをあらわにし、日蓮を刀で切りつけようとしたそうです。

このように、民衆の反発に遭った日蓮は清澄寺を出ることを余儀なくされるのでした。そして、房総の各地を巡礼する旅を始めることになります。

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