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本居宣長とはどんな人?生涯・年表まとめ【古事記伝や源氏物語、名言や思想についても紹介】

本居宣長は江戸時代後期に活躍した国学者であり、古事記の注釈書である古事記伝を著した人物です。国学とは日本に古来から存在する独自の文化・思想、精神世界を明らかにする学問のことをいいます。

宣長は儒学や仏教等の中国から伝来した思想や学問ではなく、日本人の心の中にある自然情緒や精神の重要性を説きました。国学の発展により、江戸時代には半ば忘れ去られていた古事記や日本人特有の精神、更には天皇という存在が改めて注目されます。

本居宣長自画像(1773年頃)

教科書でも必ず習う宣長ですが、その生涯については知らない人も多いのではないでしょうか?宣長は優れた医者であると共に、和歌も嗜んだ文化人でした。また古事記伝を完成させたのは68歳の時で、研究から実に34年が経過していました。宣長は優れた教養と年齢を感じさせない力強さを併せ持っており、私達も見習うべき人物と言えるでしょう。

今回は古事記伝に感嘆した事で、宣長の偉大さと人物像に心惹かれてしまった筆者が、宣長の生涯と主要な作品について解説していきます。

本居宣長とはどんな人物か

名前本居宣長
誕生日享和元年9月29日(1801年11月5日)
没日1215年2月6日(建保3年1月6日)
生地伊勢国松坂
没地伊勢国松坂
配偶者勝(かつ)
埋葬場所妙楽寺(三重県・松坂氏)

本居宣長の生涯をハイライト

本居宣長の歌碑

本居宣長の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1730年 0歳 本居宣長誕生(幼少期の名は富之助)
  • 1752年 22歳 家業を継ぐが間もなく店を畳む
  • 1758年 28歳 医者の傍らで源氏物語等の研究を開始
  • 1763年 33歳 松坂の一夜で賀茂真淵から教えを説く
  • 1769年 39歳 師である賀茂真淵死去
  • 1793年 64歳 玉勝間の執筆を開始
  • 1798年 69歳 古事記伝脱稿
  • 1801年 72歳 松坂の地で死去

本居宣長が大成させた国学とは?国学の四大人に名を連ねる

日本神話に登場するイザナギとイザナミ

国学とは「儒学や仏教が伝来する前の日本」を研究する学問です。扱う範囲は広く、文学や語学はもちろんの事、歴史や地理、更には朝廷の儀式等、非常に多岐に渡ります。蘭学と共に江戸時代を代表する学問です。

国学は儒学や仏典に対する批判として勃興した経緯があります。儒学は中国から伝来したものであり、いわば外来思想です。国学者達は「儒教道徳・仏教道徳が人間本来の感情を押し殺す」と批判しました。

国学の四大人

国学に特に大きな影響を与えた4人を「国学の四大人」と呼びます。人物と功績は以下の通りです。

  • 荷田春満(1669〜1736年):万葉集や古事記の研究の基礎を築き、日本民族固有の精神に立ち返る「復古神道」を提唱
  • 賀茂真淵(1697〜1769年):古代日本人の精神を研究し、和歌の革新に貢献
  • 本居宣長(1730〜1801):古事記伝を執筆し、源氏物語の中にある「もののあはれ」という思想を確立させる
  • 平田篤胤(1776〜1843年):宣長没後の弟子を自称し、復古神道を大成させる

上記の4人は日本人古来の精神を解明させた功績が大きいのですが、他にも古典の文献考証を行う実証主義派の国学者もいました。実証主義による国学は、明治期には民俗学の基礎として発展していくのです。

古事記の注釈書「古事記伝」を執筆

古事記伝の再稿本

宣長は1798年に「古事記の注釈書である古事記伝」を完成させました。古事記は日本最古の歴史書とされ、天地開闢から推古天皇までの時代を著したものです。編纂されたのは712年であり、同時期に日本書紀も編纂されました。

時代が下ると共に「日本書紀が正史」とされ、古事記は歴史の中に埋もれていきます。鎌倉時代に至っては朝廷でも拝見出来る人のいない秘本とされました。江戸時代に少し出回るものの、読める人はほとんどいなかったのです。

宣長は僅かに出回っていた古事記の写本を相互に確認し、異なる部分を丁寧に精査。古語の訓読みや膨大な注釈を加える事で、古事記を書誌学の観点から研究したのです。古事記伝は全44巻の大作で完成に30年以上を要しました。

古事記伝は大きな反響を呼び、近世以降の古事記の研究に不可欠なものになりました。古代人の生き方や精神性が現在に生きる私達にも脈々と受け継がれている事が、古事記の研究で明らかになったのです。

本居宣長の思想「もののはあれ」とは?

源氏物語画帖 宣長は源氏物語を敬愛していた

宣長は五感から得られる「しみじみとした情趣・無常観的な哀愁」こそが日本人の精神の根底にあるものだと説きました。それを「もののあはれ」と呼び「源氏物語」はもののあはれを表現した最高の文学だと評したのです。

江戸時代には幕府が推奨した「儒学」が世の中に浸透していました。儒学の思想の一つが「善を勧め、悪を懲らしめる」という勧善懲悪思想です。

儒教の始祖、孔子

当時は日本古来の文学も、儒学的概念を前提に評価されていました。例えば「平家物語」は「儒学思想」から見れば、「驕り高ぶった平家が源氏に滅ぼされる」という物語になります。

ただ「もののあはれの思想」からみれば、栄華を誇った平家が呆気なく滅びるという無常観こそが、作品の本質という事が分かります。これらの「もののあはれ」が集約された作品が源氏物語だと宣長は説いたのですね。

宣長は古事記伝やもののあはれの思想から、日本古来の美意識や精神を発見しました。皆さんも季節の変化等にしみじみとした感情を抱く事はありませんか?もののあはれは、私達の精神にも脈々と受け継がれているのです。

本居宣長の功績

功績1「源氏物語に日本外交史 多くの著作を現在に遺す」

源氏物語玉の小櫛

宣長は古事記伝が有名ですが、その他にも源氏物語の研究にも大きな功績を残し、様々な著作を残しています。

  • 紫文要領:源氏物語の注釈書
  • 源氏物語年紀考:源氏物語の作品内の出来事を主人公の年齢を基準に記したもの
  • 源氏物語玉の小櫛:源氏物語年紀考の改訂版であり、源氏物語研究の集大成

宣長は生涯源氏物語を愛しており、1763年に著した紫文要領の時点で「もののあはれ」の思想に辿り着いていました。儒学視点では好色で戒めの対象だった光源氏を、「もののあはれ」の観点から評価するべきと解いたのです。

地名字音転用

その他にも以下の著作を残しました。

  • 玉勝間:古来の先例に基づいた儀式の考証や、談話・聞書抄録等の見解を述べたもの
  • 馭戎慨言:江戸時代以前の外交史の記述書
  • 地名字音転用:古代の日本の地名を分類分けしたもの
  • 石上私淑言:和歌のあるべき形を論じたもの

宣長は国学において古事記や源氏物語の研究のみをひていたのではありません。地理・朝廷の儀式・和歌等の広い分野を包括的に研究・考証していた事が分かります。

これらの書籍は宣長の緻密な交渉のおかげもあり、古来の事柄を学ぶ上での基礎的なものになっているのです。

功績2「尊王論を説き、結果的に幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた」

戊辰戦争で官軍が用いた錦旗

尊王論とは王者を尊ぶ思想であり、儒学が発祥です。仁徳による統治を王道、武力や策略による統治を覇道と呼び、王道を解く事を尊王と呼びます。日本の場合は天皇=王道(尊王)、幕府=覇道という図式が成り立つのです。

尊王論は宣長が初めて主張したのではなく、鎌倉後期には存在しています。尊王論により鎌倉幕府後は後醍醐天皇=王者、鎌倉幕府=覇者という図式が成り立ち、仁徳による政治への期待感は倒幕への大きな原動力になりました。

宣長が説いた尊王論とは徳川幕府の否定ではありません。宣長は「将軍は天皇の委任により、政権を担当しているから将軍の政治に従う事が天皇を尊ぶ事になる」と考えており、幕府を肯定的に考えていました。

やがて黒船来航等で国内が不安定になると、宣長の主張した尊王論は尊王攘夷思想へと発展。倒幕に大きな影響を与えました。宣長の意図する形ではないものの、倒幕に宣長の思想が大きく関与した事は間違いありませんね。

功績3「内科医・小児科医としても超優秀!当時の医師の実態を後世に伝える」

宣長は江戸時代の小児科医だった

宣長は国学者として大成しましたが、本業は医師でした。宣長は内科医・小児科医としても著名で、多くの患者が訪れており、死の10日前まで患者を診ていた事が知られています。

宣長は「済世録」という日誌を執筆し、治療や処方の内訳、薬の金額等を細かく記しており、当時の医師の実態を後世に伝えてくれます。また小児用の薬製造も行い、乳児の病気の原因は母親にあると考えていたようです。

宣長の生きた時代は、杉田玄白等の蘭方医が台頭しています。ただ宣長は蘭学は学ばずに漢方医学を選択。これは宣長の「病を治すのは薬ではなく気」と言う医学観が影響しており、精神や自然の考えを重視する国学に通じます。

医師として成功した宣長ですが、医師という仕事について以下のように述べました。

医師は、男子本懐の仕事ではない

宣長にとって医師はあくまで生計を立てるものであり、本当は生粋の国学者として生きたかったようですね。それでも医師としての才能も持ち合わせた宣長は、やはり凄い人物だと言えそうです。

本居宣長の名言

松阪市と旧一志郡の境にある山桜

才のともしきや、学ぶことの晩おそきや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止まることなかれ

意味は「才能がない、学ぶのが遅すぎた、忙しいと言って思い崩れて、止まる事のないように」です。宣長は30年以上の月日を費やして古事記伝を執筆しており、様々な思いがあった事と思われます。

まさに宣長だからこそ生まれた名言と言えるでしょう。

敷島の大和心に人問わば朝日に匂ふ山桜花

宣長が61歳の時に詠んだ和歌です。意味は「大和心とは何かと聞かれるなら、朝日に輝く山桜の花と答えよう」となります。

宣長は中国の思想である漢意(からごころ)ではなく、大和心(やまとごころ)の大切さを説き、和歌で表現したのです。もし貴方が山桜の花に心を奪われたのなら、それは大和魂が受け継がれている証ですね。

世のなかのよきもあしきもことごとに、神の心のしわざにぞある

「世の中の良い事も悪い事も、全ては神の心の仕業である」という意味です。ここで表現される神とは、八百万の神を指すとされます。色んな神がいる中で、私達はその意志や思いを知る事は出来ません。

良い事も悪い事も受け入れる事が大切だと宣長は説いたのです。

本居宣長の人物相関図

明治維新の思想のあり方を時系列で追ったもの

国学は江戸時代には思想、幕末には行動、明治には建設として日本の発展に大きな影響を与えました。国学だけでなく、朱子学や陽明学等の多くの思想が日本にはあり、現在にも受け継がれていると言えるのです。

本居宣長にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「書斎の名は鈴屋?無類の鈴コレクターだった」

宣長の邸宅 鈴屋

宣長は研究や医学に疲れた時に、鈴の音に癒しを求めたそうです。鈴には宗教的側面もあり、神を呼ぶ儀式にも使われており、5世紀頃には既に金属製の鈴が出土しています。国学を愛した宣長が惹かれたのも当然と言えます。

また宣長の住んだ松坂は伊勢神宮のすぐ近くにあり、神の遠堺でした。京都から伊勢神宮へ官吏達が派遣された時、彼らは松坂で馬に付けていた鈴を外しました。鈴は神を呼び出すものであり、伊勢神宮は神が住む場所ですからね。

いわば松坂は「神の一番近くで鈴を鳴らせる場所」です。宣長は12歳から72歳まで暮らした邸宅の書斎を「鈴屋(すずのや)」と名付け、床の間の柱に掛鈴を吊り下げていました。

宣長の愛した八角鉄鈴を模した陶鈴

宣長はマニアックな鈴を多数所有し、鉄で作られた「八角型鉄鈴」や青銅製の「茄子型古鈴」。更には鬼の面の形をした「鬼面鈴」や朝廷から授けられる「駅鈴」のレプリカ等、コレクターに近い面もあったようです。

一度興味を持った事にはのめり込むタイプの宣長なので、鈴に対する思いも並々ならぬものがあったのですね。宣長の邸宅は本居宣長記念館の敷地内にあり、今でも貴重な鈴達を見る事が出来ますよ。

都市伝説・武勇伝2「邪馬台国九州説は本居宣長が提唱した?」

邪馬台国の女王卑弥呼

邪馬台国は2〜3世紀に日本に存在した国です。女王の卑弥呼が有名ですね。邪馬台国は謎に包まれており、「邪馬台国の位置した場所」についての論争は宣長が発端だと言われています。

江戸時代中期の朱子学者・新井白石は邪馬台国を大和国(現・奈良県)の前身であると主張。後には筑後国(福岡県)説を説きました。これに異議を唱えたのが宣長であり、宣長は邪馬台国の場所を熊襲(現・熊本)と主張しました。

宣長は「卑弥呼神功皇后・邪馬台国は大和国」と述べています。ただ「中国に邪馬台国が朝貢をした」という中国の記述を問題視。中国の文献に記載されている邪馬台国は、大和国の邪馬台国を語った偽物であると主張したのです。

宣長は儒学等の中国の思想を否定し、「天皇が中国に貢物をした」という事はあってはならないと考えたのでした。邪馬台国の場所は未だに判明しておらず、もしかしたら宣長の熊本説が正しいのかもしれません。

いつか謎が解明されると良いですね。

都市伝説・武勇伝3「夢の中で入門を許可する?最後の門下生 平田篤胤」

平田篤胤 平田篤胤の思想に島崎藤村の父親も感化されていた

宣長が遺した「授業門人姓名録」には宣長の門人(弟子)の名が記載されています。490番の最後の1人は平田篤胤で「国学の四大人」にも名を連ねています。ただ彼が門人になったのは、宣長が没後の事でした。

篤胤が宣長の著作を知ったのは宣長死去から2年後。篤胤は宣長の思想に傾倒し「夢の中で宣長より入門を許可された」と主張しています。篤胤は宣長の長男・春庭に入門し、結果的に授業門人姓名録の最後の人物となったのです。

夢の中で対面する篤胤と宣長

篤胤は皇道の正当性を説く等、幕末の尊王攘夷思想に多大なる貢献を果たしました。ただ幽冥界・霊界等のオカルト的な研究も数多く行なっており、「宣長の意志を本当に受け取ったのか」は未だに議論されています。

果たして宣長は本当に夢の中で門人になる事を許可したのか、篤胤のでっち上げなのか、今となっては分からないのです。

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