本居宣長の功績
功績1「源氏物語に日本外交史 多くの著作を現在に遺す」
宣長は古事記伝が有名ですが、その他にも源氏物語の研究にも大きな功績を残し、様々な著作を残しています。
- 紫文要領:源氏物語の注釈書
- 源氏物語年紀考:源氏物語の作品内の出来事を主人公の年齢を基準に記したもの
- 源氏物語玉の小櫛:源氏物語年紀考の改訂版であり、源氏物語研究の集大成
宣長は生涯源氏物語を愛しており、1763年に著した紫文要領の時点で「もののあはれ」の思想に辿り着いていました。儒学視点では好色で戒めの対象だった光源氏を、「もののあはれ」の観点から評価するべきと解いたのです。
その他にも以下の著作を残しました。
- 玉勝間:古来の先例に基づいた儀式の考証や、談話・聞書抄録等の見解を述べたもの
- 馭戎慨言:江戸時代以前の外交史の記述書
- 地名字音転用:古代の日本の地名を分類分けしたもの
- 石上私淑言:和歌のあるべき形を論じたもの
宣長は国学において古事記や源氏物語の研究のみをひていたのではありません。地理・朝廷の儀式・和歌等の広い分野を包括的に研究・考証していた事が分かります。
これらの書籍は宣長の緻密な交渉のおかげもあり、古来の事柄を学ぶ上での基礎的なものになっているのです。
功績2「尊王論を説き、結果的に幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた」
尊王論とは王者を尊ぶ思想であり、儒学が発祥です。仁徳による統治を王道、武力や策略による統治を覇道と呼び、王道を解く事を尊王と呼びます。日本の場合は天皇=王道(尊王)、幕府=覇道という図式が成り立つのです。
尊王論は宣長が初めて主張したのではなく、鎌倉後期には存在しています。尊王論により鎌倉幕府後は後醍醐天皇=王者、鎌倉幕府=覇者という図式が成り立ち、仁徳による政治への期待感は倒幕への大きな原動力になりました。
宣長が説いた尊王論とは徳川幕府の否定ではありません。宣長は「将軍は天皇の委任により、政権を担当しているから将軍の政治に従う事が天皇を尊ぶ事になる」と考えており、幕府を肯定的に考えていました。
やがて黒船来航等で国内が不安定になると、宣長の主張した尊王論は尊王攘夷思想へと発展。倒幕に大きな影響を与えました。宣長の意図する形ではないものの、倒幕に宣長の思想が大きく関与した事は間違いありませんね。
功績3「内科医・小児科医としても超優秀!当時の医師の実態を後世に伝える」
宣長は国学者として大成しましたが、本業は医師でした。宣長は内科医・小児科医としても著名で、多くの患者が訪れており、死の10日前まで患者を診ていた事が知られています。
宣長は「済世録」という日誌を執筆し、治療や処方の内訳、薬の金額等を細かく記しており、当時の医師の実態を後世に伝えてくれます。また小児用の薬製造も行い、乳児の病気の原因は母親にあると考えていたようです。
宣長の生きた時代は、杉田玄白等の蘭方医が台頭しています。ただ宣長は蘭学は学ばずに漢方医学を選択。これは宣長の「病を治すのは薬ではなく気」と言う医学観が影響しており、精神や自然の考えを重視する国学に通じます。
医師として成功した宣長ですが、医師という仕事について以下のように述べました。
医師は、男子本懐の仕事ではない
宣長にとって医師はあくまで生計を立てるものであり、本当は生粋の国学者として生きたかったようですね。それでも医師としての才能も持ち合わせた宣長は、やはり凄い人物だと言えそうです。
本居宣長の名言
才のともしきや、学ぶことの晩おそきや、暇のなきやによりて、思いくずおれて、止まることなかれ
意味は「才能がない、学ぶのが遅すぎた、忙しいと言って思い崩れて、止まる事のないように」です。宣長は30年以上の月日を費やして古事記伝を執筆しており、様々な思いがあった事と思われます。
まさに宣長だからこそ生まれた名言と言えるでしょう。
敷島の大和心に人問わば朝日に匂ふ山桜花
宣長が61歳の時に詠んだ和歌です。意味は「大和心とは何かと聞かれるなら、朝日に輝く山桜の花と答えよう」となります。
宣長は中国の思想である漢意(からごころ)ではなく、大和心(やまとごころ)の大切さを説き、和歌で表現したのです。もし貴方が山桜の花に心を奪われたのなら、それは大和魂が受け継がれている証ですね。
世のなかのよきもあしきもことごとに、神の心のしわざにぞある
「世の中の良い事も悪い事も、全ては神の心の仕業である」という意味です。ここで表現される神とは、八百万の神を指すとされます。色んな神がいる中で、私達はその意志や思いを知る事は出来ません。
良い事も悪い事も受け入れる事が大切だと宣長は説いたのです。
本居宣長の人物相関図
国学は江戸時代には思想、幕末には行動、明治には建設として日本の発展に大きな影響を与えました。国学だけでなく、朱子学や陽明学等の多くの思想が日本にはあり、現在にも受け継がれていると言えるのです。
本居宣長にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「書斎の名は鈴屋?無類の鈴コレクターだった」
宣長は研究や医学に疲れた時に、鈴の音に癒しを求めたそうです。鈴には宗教的側面もあり、神を呼ぶ儀式にも使われており、5世紀頃には既に金属製の鈴が出土しています。国学を愛した宣長が惹かれたのも当然と言えます。
また宣長の住んだ松坂は伊勢神宮のすぐ近くにあり、神の遠堺でした。京都から伊勢神宮へ官吏達が派遣された時、彼らは松坂で馬に付けていた鈴を外しました。鈴は神を呼び出すものであり、伊勢神宮は神が住む場所ですからね。
いわば松坂は「神の一番近くで鈴を鳴らせる場所」です。宣長は12歳から72歳まで暮らした邸宅の書斎を「鈴屋(すずのや)」と名付け、床の間の柱に掛鈴を吊り下げていました。
宣長はマニアックな鈴を多数所有し、鉄で作られた「八角型鉄鈴」や青銅製の「茄子型古鈴」。更には鬼の面の形をした「鬼面鈴」や朝廷から授けられる「駅鈴」のレプリカ等、コレクターに近い面もあったようです。
一度興味を持った事にはのめり込むタイプの宣長なので、鈴に対する思いも並々ならぬものがあったのですね。宣長の邸宅は本居宣長記念館の敷地内にあり、今でも貴重な鈴達を見る事が出来ますよ。
都市伝説・武勇伝2「邪馬台国九州説は本居宣長が提唱した?」
邪馬台国は2〜3世紀に日本に存在した国です。女王の卑弥呼が有名ですね。邪馬台国は謎に包まれており、「邪馬台国の位置した場所」についての論争は宣長が発端だと言われています。
江戸時代中期の朱子学者・新井白石は邪馬台国を大和国(現・奈良県)の前身であると主張。後には筑後国(福岡県)説を説きました。これに異議を唱えたのが宣長であり、宣長は邪馬台国の場所を熊襲(現・熊本)と主張しました。
宣長は「卑弥呼は神功皇后・邪馬台国は大和国」と述べています。ただ「中国に邪馬台国が朝貢をした」という中国の記述を問題視。中国の文献に記載されている邪馬台国は、大和国の邪馬台国を語った偽物であると主張したのです。
宣長は儒学等の中国の思想を否定し、「天皇が中国に貢物をした」という事はあってはならないと考えたのでした。邪馬台国の場所は未だに判明しておらず、もしかしたら宣長の熊本説が正しいのかもしれません。
いつか謎が解明されると良いですね。
都市伝説・武勇伝3「夢の中で入門を許可する?最後の門下生 平田篤胤」
宣長が遺した「授業門人姓名録」には宣長の門人(弟子)の名が記載されています。490番の最後の1人は平田篤胤で「国学の四大人」にも名を連ねています。ただ彼が門人になったのは、宣長が没後の事でした。
篤胤が宣長の著作を知ったのは宣長死去から2年後。篤胤は宣長の思想に傾倒し「夢の中で宣長より入門を許可された」と主張しています。篤胤は宣長の長男・春庭に入門し、結果的に授業門人姓名録の最後の人物となったのです。
篤胤は皇道の正当性を説く等、幕末の尊王攘夷思想に多大なる貢献を果たしました。ただ幽冥界・霊界等のオカルト的な研究も数多く行なっており、「宣長の意志を本当に受け取ったのか」は未だに議論されています。
果たして宣長は本当に夢の中で門人になる事を許可したのか、篤胤のでっち上げなのか、今となっては分からないのです。
初めて知ることもあり、役に立ちました。
学校での学習に、とても役に立ちました。
ありがとうございます。
学校の勉強で聞いたことはあっても、知らないことばっかでびっくりしました。
とてもいい勉強になりました!