本居宣長の年表
1730〜1738年 – 0〜8歳「本居宣長誕生」
庄屋の小津家の息子として生まれる
宣長は1730年に伊勢国松坂で木綿商を営む小津三四右衛門定利と勝の次男として誕生。幼名は富之助と言いました。長男の五郎定治は養子であり、宣長は実子としては長男にあたります。
宣長が生まれる前に父・定利は男子の誕生を願い、大和国吉野の水分神(みくまりのかみ)に祈願をしました。水分神は元々は雨や田んぼに関係する神様でしたが、いつしか御子守の神様として信じられるようになります。
定利の願いが届いたのか、無事に男子(宣長)が生まれました。そんな経緯もあり、宣長は自分の事を「水分神の申し子」と信じていたようです。
幼い頃から学問を学ぶ
宣長は8歳の頃から寺子屋で学問を学び、優秀な成績を残す等、学者としての資質は既に現れていました。ただ儒学を学ぶ環境で過ごしていた為か、中国の史書等に興味を持ち、国学への興味は薄かったようです。
1738〜1749年 – 8〜19歳「商売の勉強をするが…学問への欲求は止まず」
父の死と商学の勉強
宣長が11歳の時に父の定利が46歳で死去。木綿商は兄が受け継ぎ、宣長も本格的に商業の勉強を始めます。16歳の頃には江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、見習いとなりました。
更に19歳の時には伊勢山田の紙商兼御師の今井田家に養子となり、そちらでも商業を学んでいます。
和歌や地図の作成を行う
商人になる教育や環境が整っていく中、宣長は別の事にのめり込んでいました。15歳の頃には中国4千年の歴史を10m程の巻物に詳細にまとめた「神器伝授図」を作成しています。
更に江戸に赴く際に、遺跡の方角等を校正した「大日本天下四海画図」という地図を作成。縦1.2 m 横2 mの大作で細部にわたり地名が記されています。また養子に行く頃に本格的に和歌の勉強を始めました。
神器伝授図や大日本天下四海画図の情報量・作成速度は尋常ではなく、興味を持った事にのめり込む性格は既に見られていました。精神科医岡田尊司氏によると、宣長にはアスペルガー的な気質があったとも言われています。
1750〜1752年 – 20〜22歳「木綿商を畳んで京都へ遊学する」
兄の死と京都への遊学
22歳の頃に義兄が亡くなり、宣長は家業を継ぐ為に今井田家の養子を解消して小津家に戻ります。ただ自分商売には向いていないと考えた宣長は、母と相談して木綿商を畳む事を決めました。
更に宣長は医者を志し、勉学の為に京都に行く事を決めました。22歳だと当時としては家業を継いで一人前という年齢です。そんな状況で一から医学を学ぶ事は非常に大変だったと推測されます。
1752〜1757年 – 22〜27歳「王朝文化への憧れ」
源氏物語と万葉集
京都で遊学を始めた宣長は、堀元厚・武川幸順に医学を教わります。この頃の宣長は反朱子学を唱えて中華文明を取り入れる事を主張した荻生徂徠や、古典研究に貢献した契沖にも師事しています。
また宣長は京都での生活を経て、雅な雰囲気や生活風情に感化され、平安時代の王朝文化に強い憧れを抱きました。宣長が源氏物語の研究を始めたのは京都に住んでいた事が大きいとされます。
1755年に宣長は稚髪し、名を宣長・号を春庵と名乗り医者となりました。翌年には「万葉集」を購入し、平安王朝より更に過去の作品に興味を持つようになったのです。
1756年正月から宣長の日記は漢文から和文体に変わっており、心境の変化を感じさせます。
医者と学者の両立を図る
1757年に松坂に戻った宣長は医院を開業。専門は小児科と内科ですが、要望があればそれ以外の患者も診察していました。日中は医者として働き、夜は源氏物語の講義や日本書紀の研究をするという生活を宣長は続けました。
1757〜1761年 – 27〜31歳「冠辞考の出会いと再婚」
冠辞考の出会い
また宣長は松坂に帰郷後、賀茂真淵の書である「冠辞考」に出会います。これは日本書紀や古事記、万葉集の枕詞の解説書であり、宣長は真淵に強い尊敬の念を抱いてファンレターを出しています。
宣長にとって冠辞考は人生を変える一冊だったのです。
2度の結婚
1759年に宣長は名家の娘・村田ふみと結婚しますが、3ヶ月で離婚。真相は不明ですが、京都で思いを寄せていた友人の妹・草深民を諦めきれなかった、医者と学問を両立する生活がふみには合わなかった等とされています。
そんな宣長ですが、1761年に草深民との縁談が急遽持ち上がりました。民の夫が若くして病没した為、民は実家に帰っていたのです。民は結婚するにあたり、宣長の母の名前である勝の字を貰ったとされます。
勝は宣長の医学と研究の両立を献身的に支えており、二男三女の子宝にも恵まれました。宣長が古事記伝を完成させたのは、妻のサポートもあったのです。
1761〜1764年 – 32〜35歳「松坂の一夜」
賀茂真淵との歴史的な対面
宝暦13年(1763年)5月25日に宣長は賀茂真淵と対面します。真淵は伊勢参りに来た時に松坂を訪れており、馴染みの古本屋の主人がその事を宣長に伝えたのです。宣長は松坂の宿を探し回り、新上屋にいた真淵を見つけたのでした。
紹介状もなかった宣長を真淵は温かく受け入れ、宣長の心意気を応援。宣長に「単語をただ読むだけでなく、言葉そのものを理解して語り口から理解する事」の大切さを説いています。
宣長はこれ以降は真淵の門人として多くの書簡を交わしますが、対面したのはこの時だけです。この歴史的な一夜を「松坂の一夜」と呼び、国学の発展という意味では非常に大きな一歩でした。
紫文要領・石上私淑言を現す
真淵との対面後に宣長は源氏物語の注釈書である「紫文要領」と、和歌について論じた「石上私淑言」を著します。特筆すべきは初めて「もののあはれ」について言及されている点です。
宣長は翌年の1764年から本格的に万葉集や古事記の研究を始めますが、それまでの源氏物語や和歌の研究成果の区切りをつける為にこれらの著書を表したとされます。
1764〜1778年 – 35〜49歳「馭戎慨言を著す」
賀茂真淵死去
松坂の一夜の後、宣長は真淵の指導を受けながら切磋琢磨していきました。1769年には真淵は74歳で死去。宣長はその意志を古事記伝に伝えるべく、一層研究に熱が入りました。
馭戎慨言を著す(刊行は1796年)
1778年には江戸時代より前の外交史について記述した馭戎慨言を表します。馭戎慨言で宣長は「日本は太陽神の子孫が天皇として統治する万邦無比な国である事」「それに相応しい尊厳を持つべき」と述べました。
国学に傾倒に伴い、宣長の中国への批判的な言動も増えていきます。馭戎慨言の内容は以下の通りです。
- 聖徳太子は煬帝に天皇名義で手紙を送ったが、天皇が臣下である隋に渡す必要がない
- 元寇で日本が勝利したのは、日本に神風が吹いたから
- 豊臣秀吉の朝鮮出兵を評価する
宣長は日本を敬愛する国学の観点から、馭戎慨言を著しました。幕末には馭戎慨言は広く読まれるようになり、幕末における攘夷(夷狄を打ち払う)のイデオロギーとなりました。
更に太平洋戦争期には日本人が必ず読むべき著であるとされます。馭戎は侵略の別名となり、宣長の思想は対外戦争への大義名分にもなるのです。国学にはこのような問題を引き起こした点も、理解しておく必要があります。
1778〜1790年 – 49〜61歳「宣長の名が松阪一帯に広がる」
門弟の増加
宣長の名は徐々に松阪一帯に広がるようになり、門弟の数も増えていきました。特に1781年頃から急激に増え始め、1788年の頃には164人。宣長が死去する頃には490人に達しています。
門人の多くは松阪が含まれる伊勢国が多いものの、近隣の尾張国にも及んでいました。町人や農民等、幅広い身分の人達が宣長の元を訪れており、国学が大衆に広がるきっかけとなるのです。
古事記伝が少しずつ出来上がる
1782年に宣長は瘧(おこり)という発熱を繰り返す病にかかり、門人達への講義を中断しています。ただ情熱は衰える事はなく、古事記の研究と医師の仕事は続けていました。
1789年には尾張や京都等の各地へ旅行し、見聞を深めた他に各地に散らばる門人を激励しています。1790年には古事記伝の第1〜5巻が刊行。この頃に宣長は61歳になっていたのです。
初めて知ることもあり、役に立ちました。
学校での学習に、とても役に立ちました。
ありがとうございます。
学校の勉強で聞いたことはあっても、知らないことばっかでびっくりしました。
とてもいい勉強になりました!