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唐とはどんな王朝?歴史年表まとめ【文化や政治、有名な皇帝も紹介】

「唐ってどんな王朝?」
「唐の有名な皇帝や唐の政治の仕組みについて知りたい」
「唐と日本の関係は?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?唐とは、618年から907年まで、およそ300年間にわたって中国に存在した王朝です。唐は当時の先進的な仕組みである均田制や租庸調制、府兵制などを用い、強大な国家として中国に君臨しました。

しかし、8世紀中ごろの安史の乱で唐は大打撃を受けます。その後、立て直して100近く続きますが、9世紀後半の黄巣の乱で壊滅的な打撃を受けました。そして、907年に節度使の一人である朱全忠によって滅ぼされます。

今回は唐とはどんな王朝か、唐の政治システムはどうなっていたのか、唐の政治の大まかな流れ、日本と唐との関係などについてまとめます。

唐とはどんな王朝?

唐王朝の領土と周辺諸国

唐王朝は618年に李淵が建国した王朝です。李淵は隋の有力貴族でしたが、高句麗遠征の失敗などで隋の政治乱れたときに挙兵して新王朝を樹立します。2代皇帝となった李世民(太宗)は律令制度や税制・軍制など唐の政治システムを整えます。

建国当初、唐は周辺異民族との戦争に勝利し領土を拡大します。そして、3代皇帝高宗の時代に唐の領土は最大となりました。高宗の死後、則天武后や中宗の妃である韋后が政権を握る「武韋の禍」が起きますが、それを収束させた玄宗により再び唐は繁栄します。

ところが、玄宗の治世後半、彼が楊貴妃おぼれ政治を顧みなかったことから安史の乱がおきました。これにより唐の国内は大混乱します。その後も、唐は政治システムを変えながら100年近く存続します。

しかし、875年に起きた黄巣の乱で唐は大打撃を受けてしまいました。結局、この時の痛手が致命傷となり907年に節度使の朱全忠によって滅ぼされます。

唐王朝の時代区分

「詩仙」とよばれた盛唐の詩人、李白

唐の歴史は300年にわたる長いものでした。そのため、各時代の特徴を捉えるためにいくつかの時代に分けて説明されることが多いです。ここでは、漢詩の世界で用いられる4つの時代区分を用いて説明します。

618年から712年までを初唐といいます。唐の政治システムが整えられ、対外戦争に勝利し、唐の領土が拡大した時代でした。712年から763年までを盛唐といいます。玄宗の開元の治から安史の乱の終結までの時代です。

そして、763年から835年までを中唐といいます。安史の乱後の立て直しの時期で、このころから宦官の勢力が拡大していきました。最後は835年から907年までで、晩唐といいます。高宗の乱に代表される反乱が国内各地で頻発し、唐が滅亡するまでの時代でした。

唐の領土拡大

単于都護府がおかれた内モンゴル自治区のフフホト市の位置

2代皇帝の太宗や3代皇帝の高宗の時代、唐は周辺諸民族との戦いに勝利し領土を大きく拡大しました。唐は征服した土地を支配するため都護府を設置します。640年から701年にかけて、安西・安北・単于・安東・安南・北庭の6つの都護府が設置されました。

唐は、これら異民族が多く住む地域を直接支配せず、現地の支配者に一定の自治権を認める羈縻(きび)政策で統治しました。また、唐は敵対するモンゴル高原の突厥との戦いに勝利します。

こうして唐の領土はシルクロード方面の西域から中国東北部、ベトナム北部などを含む広大な領土を支配しました。しかし、676年の唐・新羅戦争の敗北や751年のタラスの戦いでの敗北などもあり、8世紀中ごろ以降は領土を縮小させます。

唐の政治システム

中央政府である三省六部

中央政府が置かれた長安に復元された唐代の門(丹鳳門)

三省六部は唐の時代に成立した中央政府の仕組みです。この仕組みは唐の政治システムは太宗李世民の時代に整えられました。三省六部はマイナーチェンジを繰り返しながら、最後の王朝である清の時代にも引き継がれます。

三省は皇帝に直結する3つの機関です。唐王朝で最高権力者である皇帝の意思は詔勅という形で示されます。その詔勅の原案を作成するのが中書省です。中書省で作成された原案は門下省での審議を経て尚書省で実行に移されました。

実際に政策を実行するのは尚書省に所属する6つの役所、六部(りくぶ)です。六部は官吏の選抜を担当する吏部、戸籍や財政を担当する戸部、祭祀や教育、科挙を担当する礼部、軍事担当の兵部、裁判担当の刑部、土木担当の工部からなります。

三位一体の均田制・租庸調制・府兵制

均田制がつくられた孝文帝時代の中国の地図

均田制とは、唐の時代に採用された土地制度です。この制度は485年に北魏の孝文帝によってつくられました。国家が農民に土地を与え、兵役や様々な税を農民から取り立てる仕組みといってよいでしょう。

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均田制で土地を与えられた農民は穀物や布を政府に納めます。さらに、政府が命じる労役に従事しました。穀物税を租、布などを納める税を調、労役を庸・雑徭といいます。これらをすべてまとめて租庸調制といいました。

均田農民たちは租庸調の負担だけではなく、兵役の義務も課せられました。農民たちを兵士として動員する制度を府兵制といいます。唐の時代、軍の主力は均田農民で構成された歩兵でした。均田制と租庸調制、府兵制は三位一体のシステムだったのです。

特徴的な唐の服装

唐の時代は身分によって服装が異なっていました。まず、黄色は皇帝専用の色とされます。そして、紫や緋、緑、青など身分によって異なる色の衣服が用いられました。一般人が着る服は白や黒を基本としたものだったようです。

男性は南北朝時代以前のゆったりした服装から、遊牧民族の影響を強く受けた胡服をベースとした衣装を用いました。胡服は乗馬を前提としているため、袖が短い上着とズボン、革の帯、長靴が基本でした。

盛唐の女性を描いた絵画

女性は男性ほど服装のしばりがなく、色も自由に用いることができました。また、宮廷の女性の間では男装が流行します。これは、女性の地位が高かったことの裏返しかもしれません。壁画などから、女性は多種多様な髪型を楽しんでいたことがわかっています。

唐の歴史年表~建国から衰退、滅亡まで~

唐の建国

618年:李淵が唐の建国

唐の建国者、李淵

唐を建国したのは隋の有力貴族だった李淵です。隋の2代皇帝煬帝のもとで北方の重要拠点である太原を守備していました。高句麗遠征の失敗後、混乱状態に陥った隋では各地で反乱が続発します。617年、李淵は子の李世民らとともに挙兵し、翌年には隋の都である大興城を占拠しました。

翌年、煬帝が暗殺されると李淵は煬帝の孫を即位させ、彼から皇帝の位を譲られることで唐王朝を建国します。626年に李世民のクーデタである「玄武門の変」がおき、李淵は皇帝の位を李世民に譲りました。

627年:太宗による貞観の治

貞観の治をおこなった太宗(李世民

玄武門の変で皇太子だった兄を排除して唐の2代皇帝となったのが太宗李世民です。彼は貞観律令を制定し、律令に基づく政治体制の確立を目指しました。その律令に基づいて作られたのが三省六部です。

李世民とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や武則天との関係も紹介】

太宗は皇帝に即位する前から軍人として極めて優秀な戦果を挙げていました。そのころから、彼の幕下には優秀な人材が集います。彼のもとに集った人材は、彼に対し耳が痛い諫言も行いましたが、彼は怒ることなく臣下の進言に耳を傾けます。

国内を整備した李世民は名将李靖に命じて北方の突厥を攻撃させます。これにより、突厥は大打撃を受け突厥第一帝国(東突厥)が滅亡しました。さらに、李靖は西側にあった吐谷渾(とよくこん)を攻撃し滅亡させました。国内制度の整備が進み、軍事的にも勝利を重ねた太宗李世民の時代は貞観の治として後世から讃えられました。

649年:高宗の即位

3代皇帝となるも、外戚に実権を奪われた高宗

李世民の死後、3代皇帝となったのが高宗です。高宗は李世民の子のなかでは凡庸な人物でした。なぜ、凡庸な高宗が皇帝になれたかというと、二人の兄が皇位をめぐって争い、共倒れになったからです。

高宗の時代も領土の拡大は続いていました。朝鮮半島では新羅と手を結び、660年に百済を668年に宿敵ともいえる高句麗を滅ぼしました。この時が唐の最大領土です。しかし、唐と新羅の関係が悪化すると、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い出してしまいました。

高宗時代の後半は李世民の妻の一族である長孫氏と、高宗の妻の一族である武氏が権力闘争を演じます。勝ったのは武氏でした。結局、高宗は長孫氏と武氏という二つの外戚から逃れることができず、その生涯を終えます。

唐の衰退

690年:則天武后の即位

中国史上ただ一人の女帝となった則天武后

690年に女性で唯一の皇帝となったのが則天武后です。彼女は高宗の皇后で目を患った高宗に代わって政治の実権握りました。彼女は玉座の後ろの簾(すだれ)から、群臣に指示しました。こうした政治のやり方を垂簾の政といいます。高宗が死去すると、自分の子を皇帝としますが、相次いで廃位します。

則天武后の顔を模したという伝説を持つ奉先寺の大仏

そして、690年、武則天は国号を周と改め自ら皇帝に即位しました。彼女は唐の建国以来の門閥貴族に対抗するため、科挙官僚を優遇します。さらに、仏教に帰依し自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称しました。

後世、女性の身でありながら皇帝に即位した彼女は、女性は家にいるべきだとする儒教思想によって強く批判されます。しかし、彼女が行った科挙官僚の採用などはよい成果ももたらしているので、一概に「悪者」扱いするのは不公平かもしれません。

705年、老齢となった武則天は皇帝の位を一度廃位した息子(中宗)に返しました。これにより、国号は唐に戻されます。そして、同年中に亡くなりました。死後、彼女は則天武后と呼ばれるようになります。

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