唐とはどんな王朝?歴史年表まとめ【文化や政治、有名な皇帝も紹介】

「唐ってどんな王朝?」
「唐の有名な皇帝や唐の政治の仕組みについて知りたい」
「唐と日本の関係は?」

この記事をご覧のあなたはそのような疑問を持っているのではないでしょうか?唐とは、618年から907年まで、およそ300年間にわたって中国に存在した王朝です。唐は当時の先進的な仕組みである均田制や租庸調制、府兵制などを用い、強大な国家として中国に君臨しました。

しかし、8世紀中ごろの安史の乱で唐は大打撃を受けます。その後、立て直して100近く続きますが、9世紀後半の黄巣の乱で壊滅的な打撃を受けました。そして、907年に節度使の一人である朱全忠によって滅ぼされます。

今回は唐とはどんな王朝か、唐の政治システムはどうなっていたのか、唐の政治の大まかな流れ、日本と唐との関係などについてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

唐とはどんな王朝?

唐王朝の領土と周辺諸国

唐王朝は618年に李淵が建国した王朝です。李淵は隋の有力貴族でしたが、高句麗遠征の失敗などで隋の政治乱れたときに挙兵して新王朝を樹立します。2代皇帝となった李世民(太宗)は律令制度や税制・軍制など唐の政治システムを整えます。

建国当初、唐は周辺異民族との戦争に勝利し領土を拡大します。そして、3代皇帝高宗の時代に唐の領土は最大となりました。高宗の死後、則天武后や中宗の妃である韋后が政権を握る「武韋の禍」が起きますが、それを収束させた玄宗により再び唐は繁栄します。

ところが、玄宗の治世後半、彼が楊貴妃おぼれ政治を顧みなかったことから安史の乱がおきました。これにより唐の国内は大混乱します。その後も、唐は政治システムを変えながら100年近く存続します。

しかし、875年に起きた黄巣の乱で唐は大打撃を受けてしまいました。結局、この時の痛手が致命傷となり907年に節度使の朱全忠によって滅ぼされます。

唐王朝の時代区分

「詩仙」とよばれた盛唐の詩人、李白

唐の歴史は300年にわたる長いものでした。そのため、各時代の特徴を捉えるためにいくつかの時代に分けて説明されることが多いです。ここでは、漢詩の世界で用いられる4つの時代区分を用いて説明します。

618年から712年までを初唐といいます。唐の政治システムが整えられ、対外戦争に勝利し、唐の領土が拡大した時代でした。712年から763年までを盛唐といいます。玄宗の開元の治から安史の乱の終結までの時代です。

そして、763年から835年までを中唐といいます。安史の乱後の立て直しの時期で、このころから宦官の勢力が拡大していきました。最後は835年から907年までで、晩唐といいます。高宗の乱に代表される反乱が国内各地で頻発し、唐が滅亡するまでの時代でした。

唐の領土拡大

単于都護府がおかれた内モンゴル自治区のフフホト市の位置

2代皇帝の太宗や3代皇帝の高宗の時代、唐は周辺諸民族との戦いに勝利し領土を大きく拡大しました。唐は征服した土地を支配するため都護府を設置します。640年から701年にかけて、安西・安北・単于・安東・安南・北庭の6つの都護府が設置されました。

唐は、これら異民族が多く住む地域を直接支配せず、現地の支配者に一定の自治権を認める羈縻(きび)政策で統治しました。また、唐は敵対するモンゴル高原の突厥との戦いに勝利します。

こうして唐の領土はシルクロード方面の西域から中国東北部、ベトナム北部などを含む広大な領土を支配しました。しかし、676年の唐・新羅戦争の敗北や751年のタラスの戦いでの敗北などもあり、8世紀中ごろ以降は領土を縮小させます。

唐の政治システム

中央政府である三省六部

中央政府が置かれた長安に復元された唐代の門(丹鳳門)

三省六部は唐の時代に成立した中央政府の仕組みです。この仕組みは唐の政治システムは太宗李世民の時代に整えられました。三省六部はマイナーチェンジを繰り返しながら、最後の王朝である清の時代にも引き継がれます。

三省は皇帝に直結する3つの機関です。唐王朝で最高権力者である皇帝の意思は詔勅という形で示されます。その詔勅の原案を作成するのが中書省です。中書省で作成された原案は門下省での審議を経て尚書省で実行に移されました。

実際に政策を実行するのは尚書省に所属する6つの役所、六部(りくぶ)です。六部は官吏の選抜を担当する吏部、戸籍や財政を担当する戸部、祭祀や教育、科挙を担当する礼部、軍事担当の兵部、裁判担当の刑部、土木担当の工部からなります。

三位一体の均田制・租庸調制・府兵制

均田制がつくられた孝文帝時代の中国の地図

均田制とは、唐の時代に採用された土地制度です。この制度は485年に北魏の孝文帝によってつくられました。国家が農民に土地を与え、兵役や様々な税を農民から取り立てる仕組みといってよいでしょう。

北魏とはどんな国?歴史年表まとめ【成り立ちや当時の様式、皇帝も紹介】

均田制で土地を与えられた農民は穀物や布を政府に納めます。さらに、政府が命じる労役に従事しました。穀物税を租、布などを納める税を調、労役を庸・雑徭といいます。これらをすべてまとめて租庸調制といいました。

均田農民たちは租庸調の負担だけではなく、兵役の義務も課せられました。農民たちを兵士として動員する制度を府兵制といいます。唐の時代、軍の主力は均田農民で構成された歩兵でした。均田制と租庸調制、府兵制は三位一体のシステムだったのです。

1 2 3 4

コメントを残す