唐とはどんな王朝?歴史年表まとめ【文化や政治、有名な皇帝も紹介】

唐と日本の関係

遣唐使の派遣

遣唐使船を描いた絵

日本は聖徳太子の時代に派遣した遣隋使に続き、隋の後継王朝である唐にも使節を派遣しました。この使節を遣唐使といいます。第一回の遣唐使は太宗の時代である630年に派遣されます。日本からの使者を迎えた太宗は632年に高表仁を派遣しました。

遣唐使は630年から廃止される894年までの間に、19回派遣が決定され、うち15回が実施となりました。日本は遣唐使で唐から律令制度や仏教、学問、芸術など様々な事柄を学び、自国文化に取り入れていきました。

遣唐使船のルート

遣唐使は朝鮮半島を経由する北路、日本海を横断し渤海国を経由して唐に至る渤海路、東シナ海を横断し、中国南部の明州(のちの寧波)や揚州をめざす南路の3つのルートを使っていました。朝鮮半島を支配する新羅との関係が悪化したからは、渤海路や南路が多く使われます。

遣唐使は4隻の船で構成されたため、「よつのふね」などともいわれましたが、その4隻のうちすべて無事で戻ってくることはまれでした。遣唐使船に乗って日本に来ようとした鑑真は6度の難破を経験しています。遣唐使は命がけのたびだったのです。

遣唐使の一員となった有名人

阿倍仲麻呂

阿倍仲麻呂は717年に派遣された第9回遣唐使の一員として唐にわたりました。彼は倭・百済連合軍が唐・新羅連合軍と戦ったときの倭国の司令官、阿倍比羅夫の孫です。唐にわたった阿倍仲麻呂は科挙に合格し、玄宗に仕えます。

阿倍仲麻呂が望郷の気持ちを込めて歌った和歌

唐の朝廷に役人として仕えた仲麻呂は、この時代の唐の詩人である李白や王維らと親交を持ちます。唐で順調に出世した仲麻呂は同じ遣唐使船で唐にやってきた玄昉や吉備真備らが帰国しても唐にとどまり続けました。

752年、唐に来て35年が過ぎていた仲麻呂は望郷の念に駆られ帰国の途に就きました。ところが、嵐により仲麻呂の船は日本とは逆のベトナムに漂着してしまいます。安史の乱の最中も仲麻呂は唐の官職につき続け、安南節度使などに任じられます。そして、770年に帰国がかなわぬまま73歳で亡くなりました。

最澄と空海

天台宗を開いた伝教大師最澄

最澄は奈良時代後期に近江国滋賀郡に生まれました。783年に正式に僧侶となった最澄は、797年に桓武天皇に仕える僧侶となります。そして、802年にその桓武天皇によって遣唐使の一員として選ばれました。804年、最澄は短期留学生の還学生として唐にわたり仏教を学びます。

唐にわたった最澄は、804年10月に天台山の国清寺に入りました。そこで、天台宗や禅宗について学びます。この間、最澄は230部460巻の経典を写経して日本に持ち帰りました。帰国した最澄は桓武天皇の許可を得て天台宗を開きます。

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真言宗を開いた弘法大師空海

空海も最澄と同じく奈良時代後期に生まれました。彼は讃岐国の出身です。788年に上京した空海は都の大学で儒教や歴史を学びました。それに飽き足りない彼は793年に山林での修業を始めました。そして、804年に最澄と同じく第18回遣唐使の一員となって唐にわたりました。

唐にわたった空海は長安でインド僧侶の般若三蔵のもとで学びました。このとき、空海は般若三蔵から仏教の経典を読むのに欠かせない梵語の知識を得たと考えられます。その後、空海は密教の継承者である青龍寺の恵果和尚のもとで修業しました。

空海に密教の教えの全てを伝授した恵果

恵果は空海の優れた能力を見抜き、たった一人しか選べない自分の後継者として空海を選びます。恵果から密教の極意を会得した空海は20年の留学期間を大幅に短縮して806年に帰国します。帰国後、空海は真言宗を開き、嵯峨天皇から東寺や高野山金剛峰寺を与えられました。

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菅原道真

最後の遣唐大使に任命された菅原道真

菅原道真は最後の遣唐大使です。彼を遣唐使に任命したのは宇多天皇でした。宇多天皇は道真の能力を高く評価しており、遣唐使の役目もきっと果たせると思ったのでしょう。しかし、道真は遣唐使派遣の再考を朝廷に求めました。

道真は唐に留学している学問僧からの報告書を根拠とし、次の2点をあげて遣唐使の中止を呈難します。一つ目は、唐の衰退がはなはだしいことです。875年におきた黄巣の乱は唐王朝に大打撃を与えた大反乱で、中国全土を巻き込む大乱でした。

二つ目は、遣唐使派遣のリスクです。過去の記録を見ると、遣唐使の多くは難破や盗賊の襲撃などにより危険な目に遭っていました。まして、黄巣の乱で乱れている現在の唐ではより困難が多いと主張します。

これらのことより、衰退した唐に使節を派遣しても得るものは少なく、かえって危険が多いだけだとしたのです。結局、この提案が採用され遣唐使の派遣は中止となりました。以後、日本と中国の正式な国交は途絶え、貿易などの私的なつながり中心の交流となります。

まとめ

いかがでしたか?

今回は唐についてまとめました。唐は618年から907年までのおよそ300年間、中国を支配した王朝です。唐がつくった三省六部などの政治システムは後世の王朝にも引き継がれます。

また、唐は周辺異民族との戦いにも勝利し高宗の時代には領土が最大となります。しかし、安史の乱や黄巣の乱など国内の反乱が激しくなると唐は衰え、最終的に節度使の一人である朱全忠によって滅ぼされます。

この記事を読んで、唐とはどんな王朝か、唐の政治システムはどうなっていたのか、唐の政治の大まかな流れ、日本と唐との関係などについて「そうだったのか」と思っていただける時間を提供できたら幸いです。

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