唐とはどんな王朝?歴史年表まとめ【文化や政治、有名な皇帝も紹介】

712年:玄宗による開元の治

治世前半を開元の治と称えられた玄宗

開元の治とは、玄宗の治世前半に展開された安定した政治のことです。即位前、玄宗は皇帝である中宗を毒殺して権力を握っていた中宗皇后の韋后(いこう)一派を排除します。玄宗は武則天と韋后が引き起こした政治混乱(武韋の禍:ぶいのか)を鎮め、政治改革を行いました。

玄宗は武韋の禍で混乱した唐の政治を立て直し、律令制度に基づいた安定した政治を展開します。彼の政治は後世から、開元の治とよばれるようになりました。ところが、治世の後半になると玄宗は楊貴妃に溺れ政治への意欲を急速に失いました。そのため、国の政治は乱れていきます。

755年:安史の乱

安史の乱を引き起こした節度使の安禄山
出典:Wikipedia

安史の乱は、節度使の安禄山とその部下史思明が起こした反乱です。楊貴妃に溺れ、国政を顧みなくなった玄宗は特定の臣下をひいきし大出世させました。その臣下こそ、のちに大反乱を起こすことになる安禄山です。安禄山はソグド人出身の将軍で、北方民族との戦いで武功を立てます。

安禄山は玄宗の寵愛を受け、軍司令官である節度使に任じられます。しかも、国境周辺の3つの節度使の兼任すら許されました。これに危機感を持ったのが楊貴妃の一族の楊国忠です。彼は玄宗に安禄山の危険性を説きます。すると、755年に安禄山は部下の史思明とともに先手を打って挙兵し都に攻め上りました。これが、安史の乱の始まりです。

安史の乱とは?原因や結末、首謀者「安禄山」と楊貴妃の関係も解説

長安近郊につくられた華清池にある楊貴妃の沐浴像

唐の精鋭部隊を率いる安禄山は唐軍をつぎつぎと撃破し、洛陽を陥落させます。反乱軍の勢いを止められないと考えた玄宗は都の長安を捨て蜀に落ち延びます。その途中、兵士たちは安史の乱の原因は楊貴妃だとして、楊貴妃と一族の楊国忠を殺すよう要求。やむなく、玄宗はそれに応じました。

その後、玄宗は退位し跡を継いだ粛宗は遊牧民族であるウイグルの力を借りて唐軍を立て直し、安史の乱を鎮圧します。

780年:両税法の施行

両税法は租庸調制にかわる新たな税制です。安史の乱の結果、国土の多くが荒廃してしまいました。すべての土地を政府が保有する公地公民制は崩れ、農民に土地を与える均田制が実施不可能になります。すると、均田制とセットだった租庸調制や府兵制も崩壊してしまいました。

宰相である楊炎の進言を受け入れ、両税法を導入した徳宗

780年、徳宗の宰相だった楊炎は税収を確保するため両税法を定めます。この法律は、資産に応じて課税され、6月と11月に税を納めるというものでした。また、各地に治安維持を目的として軍司令官の節度使を配置します。これは、安史の乱で国内が乱れ、国境以外にも軍を置く必要が生じたからでした。

ところが、その節度使たちが地方政治も行う藩鎮へと成長することで地方が中央政府から自立するようになりました。こうして、唐の中央政府の力は衰えていったのです。

唐の滅亡

875年:黄巣の乱

反乱を起こした黄巣は塩の密売商人でした。唐の後半、減少する税を確保するため唐王朝は塩の専売を始めました。塩は人々の生活に必要不可欠で、これを専売とすることで唐王朝は莫大な利益を上げます。その一方、勝手に塩を作ることは禁じられ、塩の密売は厳しく罰せられます。

なぜ、黄巣が塩の密売を始めたかというと、なんども国家公務員試験にあたる科挙に失敗し、官僚になる夢を絶たれたからでした。その後、黄巣は同じ密売商人である王仙芝とともに挙兵します。

黄巣の乱の関連地図

唐王朝の内部混乱や厳しい税に耐えかねた人々は、黄巣たちのもとに集い大勢力となります。数を増した反乱軍は洛陽や長安といった主要都市を攻め落としました。このとき、唐は沙陀族の李克用に救援を求め、黄巣軍を攻撃させます。劣勢となった黄巣軍から朱温が投稿したため、反乱軍は一気に弱体化しました。

907年:朱全忠の簒奪

唐を滅ぼし、後梁を建国した朱全忠

朱全忠は唐に寝返った黄巣配下の武将、朱温のことです。彼は、寝返りを評価され唐の朝廷から「全忠」の名を与えられます。朱全忠は唐の朝廷で出征し、節度使となりました。その後、朱全忠は李克用との権力闘争に勝利し唐の実権を握ります。

すると、朱全忠は唐の皇帝である昭帝を殺害し、かわって哀帝をたてます。そして、哀帝に皇帝の位を譲らせたのです。こうして皇帝となった朱全忠は国号を梁とあらためます。他の梁と区別するため、歴史的には「後梁」とよばれます。これにより唐は滅亡し、五代十国時代がはじまりました。

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