特徴的な唐の服装
唐の時代は身分によって服装が異なっていました。まず、黄色は皇帝専用の色とされます。そして、紫や緋、緑、青など身分によって異なる色の衣服が用いられました。一般人が着る服は白や黒を基本としたものだったようです。
男性は南北朝時代以前のゆったりした服装から、遊牧民族の影響を強く受けた胡服をベースとした衣装を用いました。胡服は乗馬を前提としているため、袖が短い上着とズボン、革の帯、長靴が基本でした。
女性は男性ほど服装のしばりがなく、色も自由に用いることができました。また、宮廷の女性の間では男装が流行します。これは、女性の地位が高かったことの裏返しかもしれません。壁画などから、女性は多種多様な髪型を楽しんでいたことがわかっています。
唐の歴史年表~建国から衰退、滅亡まで~
唐の建国
618年:李淵が唐の建国
唐を建国したのは隋の有力貴族だった李淵です。隋の2代皇帝煬帝のもとで北方の重要拠点である太原を守備していました。高句麗遠征の失敗後、混乱状態に陥った隋では各地で反乱が続発します。617年、李淵は子の李世民らとともに挙兵し、翌年には隋の都である大興城を占拠しました。
翌年、煬帝が暗殺されると李淵は煬帝の孫を即位させ、彼から皇帝の位を譲られることで唐王朝を建国します。626年に李世民のクーデタである「玄武門の変」がおき、李淵は皇帝の位を李世民に譲りました。
627年:太宗による貞観の治
玄武門の変で皇太子だった兄を排除して唐の2代皇帝となったのが太宗李世民です。彼は貞観律令を制定し、律令に基づく政治体制の確立を目指しました。その律令に基づいて作られたのが三省六部です。
李世民とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や武則天との関係も紹介】
太宗は皇帝に即位する前から軍人として極めて優秀な戦果を挙げていました。そのころから、彼の幕下には優秀な人材が集います。彼のもとに集った人材は、彼に対し耳が痛い諫言も行いましたが、彼は怒ることなく臣下の進言に耳を傾けます。
国内を整備した李世民は名将李靖に命じて北方の突厥を攻撃させます。これにより、突厥は大打撃を受け突厥第一帝国(東突厥)が滅亡しました。さらに、李靖は西側にあった吐谷渾(とよくこん)を攻撃し滅亡させました。国内制度の整備が進み、軍事的にも勝利を重ねた太宗李世民の時代は貞観の治として後世から讃えられました。
649年:高宗の即位
李世民の死後、3代皇帝となったのが高宗です。高宗は李世民の子のなかでは凡庸な人物でした。なぜ、凡庸な高宗が皇帝になれたかというと、二人の兄が皇位をめぐって争い、共倒れになったからです。
高宗の時代も領土の拡大は続いていました。朝鮮半島では新羅と手を結び、660年に百済を668年に宿敵ともいえる高句麗を滅ぼしました。この時が唐の最大領土です。しかし、唐と新羅の関係が悪化すると、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い出してしまいました。
高宗時代の後半は李世民の妻の一族である長孫氏と、高宗の妻の一族である武氏が権力闘争を演じます。勝ったのは武氏でした。結局、高宗は長孫氏と武氏という二つの外戚から逃れることができず、その生涯を終えます。
唐の衰退
690年:則天武后の即位
690年に女性で唯一の皇帝となったのが則天武后です。彼女は高宗の皇后で目を患った高宗に代わって政治の実権握りました。彼女は玉座の後ろの簾(すだれ)から、群臣に指示しました。こうした政治のやり方を垂簾の政といいます。高宗が死去すると、自分の子を皇帝としますが、相次いで廃位します。
そして、690年、武則天は国号を周と改め自ら皇帝に即位しました。彼女は唐の建国以来の門閥貴族に対抗するため、科挙官僚を優遇します。さらに、仏教に帰依し自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称しました。
後世、女性の身でありながら皇帝に即位した彼女は、女性は家にいるべきだとする儒教思想によって強く批判されます。しかし、彼女が行った科挙官僚の採用などはよい成果ももたらしているので、一概に「悪者」扱いするのは不公平かもしれません。
705年、老齢となった武則天は皇帝の位を一度廃位した息子(中宗)に返しました。これにより、国号は唐に戻されます。そして、同年中に亡くなりました。死後、彼女は則天武后と呼ばれるようになります。