ジョンレノンは1960年代に爆発的な人気を誇ったイギリスのバンド「ビートルズ」のリーダーであり発起人でもある人物です。その人気ゆえに休む暇もないほど多忙で、めまぐるしい人生を歩み続けましたが、最後はファンによって銃殺されてしまうという悲劇に襲われました。
ジョンは幼い頃から社会や大人に対しての反抗心を持っており、同じ趣向を持った英雄・エルビスプレスリーに憧れてロックの世界へと入っていきます。初めこそ売れるまでに苦労しましたが、1962年にデビューしてからは瞬く間にスター街道を駆け上がっていくのでした。
私生活では独創的なアーティスト、オノ・ヨーコと最終的に結ばれることになり、ソロでの活動がメインになっていくようになると、世界に向けて「愛」と「平和」に素晴らしさを説くようになり、多くのファンがその思想に賛同していくのでした。
今回は幼少期から「Let It Be」や「Imagine」などの名曲を夢中で聴いていた筆者が、大人になってからジョンレノンの40年というあまりにも短い生涯に興味を持ち、様々な文献を読み漁った結果得た知識をもとに、ジョンレノンの生涯、代表作、名言、意外なエピソードに至るまでを紹介していきます。
ジョンレノンとはどんな人物か
名前 | ジョン・ウィンストン・レノン |
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誕生日 | 1940年10月9日 |
没日 | 1980年12月8日 |
生地 | イングランド マージーサイド リバプール |
没地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク |
配偶者 | シンシア・パウエル(1962年-1968年)、オノ・ヨーコ(1969年-1973年、1975年-) |
埋葬場所 | セントラル・パーク内 イマジンのメモリアルサークル(事実上の墓地であり、実際の墓地は存在しない) |
ジョンレノンの生涯をハイライト
ジョンレノンの生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1940年10月9日:イギリスのリバプールで誕生
- 1956年(16歳):エルビスプレスリーに憧れ、ロックの世界を目指すように
- 1957年(17歳):リバプールの教会で開いたコンサートでポールマッカートニーと出会う
- 1958年(18歳):ポールがジョージハリスンをメンバーに加える
- 1960年(20歳):ナイトクラブに住み込みで演奏をするように、バンド名を「ザ・ビートルズ」に
- 1962年(22歳):レコード会社EMIとの契約に成功、リンゴスターの加入、シンシア・パウエルと結婚
- 1963年(23歳):『Please, please, me』で全英1位に「I Want To Hold Your Hand」は世界中で1200万枚を売り上げる
- 1966年(26歳):ビートルズとしてのライブ活動を中止し、レコーディングのみに絞ることに
- 1966年(26歳):ロンドンのアート・ギャラリーにてオノ・ヨーコと出会う
- 1970年(30歳):「Let It Be」の発売、そして、ビートルズ解散
- 1971年(31歳):ジョンレノンの最大のヒット曲「Imagine」の発表
- 1973年(33歳):1人の時間の大切さを感じるようになり、オノ・ヨーコと別れることに
- 1975年(35歳):オノ・ヨーコが息子・ショーンを身ごもり、再びともに生活するように
- 1980年(40歳):マーク・チャップマンによる銃殺、ジョンの死を悼む手紙が25万通届く
幼少期は成績優秀かつガキ大将、成長するにつれ反抗的な性格へ
ジョンは地域でも有名なドブデイル小学校に通っていましたが、成績は非常に優秀で、教師たちからも頭のいい生徒だと認められていました。その上、生徒たちからも人気があったため、ガキ大将としてクラスを席巻していたのです。
しかし、グラマースクールへ進学すると、厳しい校則や先生に耐えられなくなり、徐々に反抗的な性格になっていくのでした。
エルビスプレスリーに憧れ、ロックの世界に
ジョンが16歳の時に音楽界に登場したエルビスプレスリーは若者たちの気持ちを代弁するかのような楽曲をロックンロールとして確立し、瞬く間にスーパースターになっていきました。
ジョンは1956年に発表されたエルビスの「Heartbreak Hotel」を聞いたことをきっかけに、ロックの世界へ進むことを決心したのです。
ビートルズのトレードマーク「モップ頭」の由来は?
ビートルズの代名詞でもある「モップ頭」は、1960年にドイツのハンブルグで出会った美術学生のアストリットという女性の進言がきっかけでした。
ジョンは最後まで「モップ頭」になることに抵抗しましたが、他のメンバーがそのスタイルになることを同意したため、しぶしぶ了承することになったのです。
2番目の奥さん「オノ・ヨーコ」との出会い
ジョンがオノ・ヨーコと出会ったのは1966年のロンドン・アートギャラリーを訪れた際のことでした。当時、ジョンはシンシアと結婚していましたが、ヨーコと意気投合し、徐々に親密な関係となっていきます。
最終的には1968年にシンシアと離婚、1969年にオノ・ヨーコと結婚することになりました。
ジョンレノンとビートルズメンバーの出会いは?
ビートルズのメンバーはジョンレノン、ポールマッカートニー、ジョージハリスン、リンゴスターですが、それぞれどのような出会いだったのかを紹介していきます。
最初に出会ったのはポール・マッカートニー
ジョンが結成したバンド「クォーリーメン」がリバプールにある教会で演奏を行った時に出会ったのがポールマッカートニーでした。当時16歳のジョン達の演奏は観客にはあまり響きませんでしたが、15歳のポールには非常に魅力的に思われたのです。
2人はすぐに意気投合し、歌詞を共作したり、音を当てたりするようになり、バンドの中心的メンバーとして活躍していくようになりました。
ポールの紹介でジョージ・ハリスンがメンバーに
ジョージハリスンは1958年にポールの紹介によってメンバーに加入しました。ジョンよりも3歳年下で、ギターの腕も悪くありませんでしたが、最初の頃はジョンに認められていませんでした。
しかし、一緒に活動する時間が長くなるにつれ、ギターも上達していったため、ジョンも受け入れるようになったのです。
レコード会社の勧めにより、リンゴ・スターが加わる
1962年にレコード会社EMIからレコーディングの仕事を受け、楽曲を披露しましたが、当時のドラマーであったピート・ベストは技術が足りていないとしてメンバーから強制的に降ろされることになってしまったのです。
その代わりにEMIがメンバーに加入させたのがリンゴスターでした。
ジョンレノンの死因とは?ファンに殺された?
ジョンレノンは1980年12月8日にマークチャップマンに銃殺されました。チャップマンは至近距離からジョンを狙い、リボルバーで5発を立て続けに発砲、1発は建物の壁に、残りの4発はジョンの胴体へ打ち込まれたのです。
ジョンはすぐに病院へと搬送されましたが、病院側から「このような重症では、数分以上生存することは不可能」という声明が発せられ、死亡宣告がなされました。
チャップマンはジョンのファンで、当日の朝にはジョンのアルバム「ダブルファンタジー」にサインをねだっていました。その際、ジョンは「君が欲しいのはこれだけかい?」と聞き、それに対してチャップマンは笑顔で頷いていたのです。
チャップマンはジョンを殺した理由として、殺害前には「ジョンの豪華な生活に怒りが芽生えた」と話し、殺害後には「ジョンを殺して有名になりたかった」と話しました。チャップマンは精神疾患を患っていたとされており、想像上の小人に向かってジョンの殺害計画を話していたというエピソードも残っています。
チャップマンはニューヨーク州の州法において「禁錮20年ないし終身の無期刑」を言い渡され、現在でもウェンデ刑務所で服役しています。2000年以後、合計11回の仮釈放を申請しましたが、いずれも却下されました。
ジョンレノンの功績
功績1「CD・レコードの売り上げが6億枚超」
ビートルズのCD・レコードなどの音楽商品の売上数は全世界で6億枚を超えています。ギネス世界記録にも「もっとも成功したグループアーティスト」として認定されました。
また、「レノン=マッカートニー」名義の作品は全213曲中の144曲を占め、その多くの楽曲がチャートで1位を記録したため、「もっとも成功したシンガーソングライター」としてもギネス記録に認定されています。
功績2「フラワーパワー運動で披露した歌を全世界4億人が視聴」
フラワーパワー運動は1970年代にアメリカで起きた平和運動ですが、最初に始まったのは1967年のことでした。この年、ビートルズは「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」を発表し、平和運動の先頭に立って活動を盛り上げていったのです。
そして、1967年の夏に世界中のテレビを通じて「All You Need Is Love」を歌いました。この際、4億人もの人が同時に視聴したそうです。
功績3「暗殺事件後、追悼の手紙が世界中から25万通送られた 」
ジョンレノンの暗殺事件は世界中に悲しみを与え、追悼の手紙が25万通も届きました。
また、1980年12月14日に催された黙祷の際、事件現場近くのニューヨーク・セントラルパークには22万人以上もの人が集合し、全世界では数百万人の人々が10分間の黙祷を捧げたとされています。
ジョンレノンの名言
「好きに生きたらいいんだよ。だって、君の人生なんだから。」
「愛とは、育てなくてはいけない花のようなもの。」
「楽しんで無駄にした時間は、無駄じゃない。」
「『どんな人だって成功できる』自分にそう何度も言い聞かせ続けていれば、絶対に成功できるのです。」
ジョンレノンにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ビートルズが登場すると、4人に1人の女性が気絶した?」
アーティストのライブで失神する女性が出るという話をよく聞くと思いますが、その先駆けとなったのがビートルズなのです。
ビートルズがアメリカに進出し、初めてのライブを行った時、会場にいた女性の4人に1人が気絶したのではないかと噂されました。
都市伝説・武勇伝2「ビートルズ出演のアメリカのテレビ番組を7300万人が視聴」
アメリカへ進出した際は人気の絶頂だったビートルズですが、そんなビートルズがアメリカのテレビ番組へ初出演した時、その映像を7300万人もの人が視聴したと言われています。
当時のアメリカの人口は1.8億人でしたので、およそ半分の人々がテレビでビートルズに釘付けになったということです。
都市伝説・武勇伝3「多忙な生活を再現するだけで一つの映画になった?」
1964年に制作された映画「A Hard Days Night」はビートルズの4人が気が狂いそうなほどに多忙な生活をしている様子をそのままモノクロフィルムにした作品です。
制作のきっかけはスウェーデンでインタビューを受けた際のジョンの言葉「ああ、スウェーデンね。ホテルと車、車とホテル、それから飛行機と車さ。」でした。この言葉がビートルズの当時の多忙ぶりをよくあらわしています。
都市伝説・武勇伝4「出版した絵本の評価がルイス・キャロルらに匹敵」
1964年にジョンは絵本「In His Own Write」を出版しました。この絵本はジョンがこれまでに書いた詩や奇妙な絵を寄せ集めたもので、出版すると同時に初刷りの10万部を完売するほどの驚異的な売り上げを記録し、最終的にベストセラーにまで至りました。
そして、「この作品には知性が宿り、エドワード・リアやルイス・キャロルに匹敵する」と文芸評論家たちに言わしめたのです。
都市伝説・武勇伝5「オノ・ヨーコとの1週間のベッド上生活を取材させた」
ジョンは1969年にオノ・ヨーコと結婚すると、ハネムーンをアムステルダムで過ごしました。
その際、ヨーコとともに1週間ベッド上生活を送り、その様子を自由に記者やカメラマンに撮影させたのです。この取り組みは「ベッドイン」と呼ばれ、反戦のデモンストレーションとして行われたのでした。
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