1964年 – 24歳「アメリカへ進出」
アメリカへと上陸し、世界中のポップ・ミュージックに影響を及ぼす
ビートルズは1964年にアメリカへ進出し、アメリカ東海岸でのツアーに始まり、ラジオやテレビのインタビューを受けるなど多忙な日々を送ることになります。ビートルズはアメリカの音楽界にも多大な影響を及ぼし、世界中のポップ・ミュージックに革命を起こすことになるのでした。
イギリスへと帰国すると、彼ら自身の忙しい生活を映画化することが決定し、「A Hard Days Night」として彼らのありのままの日常が上映されることになります。しかし、ジョン本人はこれらの多忙な生活やファンの熱狂ぶりに嫌気がさすようにもなっていくのでした。
麻薬が習慣に
1965年には2本目の映画「HELP!」が撮影されるなど、ますます多忙を極めていきます。忙しい日々によって疲労が重なる中でメンバーが手に取ったのは麻薬でした。
マリファナやペップヒルなどを最初は試すように使っていましたが、徐々に習慣化していってしまいます。
1966年 – 26歳「ビートルズとしてのライブ活動を中止し、レコーディングのみに絞ることに」
キリスト教徒を激怒させる発言をしてしまったジョン
1965年も勢いを止めることなく、アメリカでの全国ツアーなどをこなし、イギリスの叙勲を受けるなど評価も高いままで推移していきました。しかし、1966年、ジョンのちょっとした発言から大バッシングを受けることになるのです。
3月にロンドンの新聞のインタビューを受けたジョンは「ビートルズは今やイエスキリストより人気がある」と発言してしまったのです。イギリスではあまり大きな問題となりませんでしたが、信仰心の厚い人が多いアメリカの反感は抑えることができませんでした。
アメリカ中の新聞、雑誌、メディアなどがこの発言を取り上げ、それに同調した人々がビートルズのレコードを大量に焼き払うという事件も起こったのです。ジョンはこの騒動によって公式の記者会見の場で謝罪することになりました。
1966年を最後のツアーに
多忙な生活、人々からの反発、麻薬による精神不安定などから気分が落ち込んでいったジョンはビートルズとしてのライブ活動を中止したいと申し出ました。これに対し、ジョージは同意、ポールとエプスタインは反対という立場をとりましたが、最終的に、1966年8月26日にサンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われたライブを最後にライブ活動を中止することになりました。
これ以後、ビートルズはレコーディングのみをするバンドとして活動するようになっていきます。しかし、ライブ活動を行わなくなったことで仕事がなくなってしまったエプスタインは1967年8月に自殺してしまうのでした。
1966年 – 26歳「オノ・ヨーコとの出会い」
ロンドンのアート・ギャラリーにてオノ・ヨーコと出会う
ジョンの麻薬使用の常習化によってシンシアとの関係がだんだんと希薄になっていきます。そのさなかにジョンがロンドンのアート・ギャラリーにて出会ったのが、日本人芸術家のオノ・ヨーコでした。2人は出会ってすぐに意気投合し、徐々に親密な関係になっていきました。
麻薬の影響で、楽曲が「サイケデリック・ミュージック」として知られるように
この頃のビートルズは幻覚剤のLSDを大量に使用し始め、この薬によって曲のイメージが膨らむと感じるようになっていきます。この影響もあり、ファンからも楽曲が「サイケデリックミュージック(幻覚を見ているかのような感覚を与える音楽)」のようだと評価されるようになりました。
フラワーパワー運動の先頭を切る
1960年に始まったベトナム戦争が北ベトナムへの侵攻が行われた1965年になっても終息の兆しを見せないことから、アメリカ国内でも反戦運動・平和運動が盛んになっていきます。1967年にはフラワーパワーと呼ばれる平和運動が起こり、ビートルズはこの活動の先頭を切って推し進めていったのです。
そして、この年の夏、テレビ放送を通じて「All You Need Is Love」を世界中へと送り届けましたが、この映像を4億人の人々が視聴したとされています。
1970年 – 30歳「ビートルズ解散」
ソロ活動開始
ジョンは1968年からソロ活動を行うようになります。そして、1969年にオノ・ヨーコと結婚すると、プラスティック・オノ・バンドを立ち上げ、「Give Peace a Chance」、「Cold Turkey」などのシングルを発表しました。のちに収録された「平和の祈りをこめて」にはエリック・クラプトンなども参加しています。
「Let It Be」の発売、そして、ビートルズ解散
1970年、ビートルズの代表曲となる「Let It Be」が発売されます。チャートで1位を記録し、大ヒットとなりますが、この曲がビートルズの最後のヒット作となってしまうのです。
マネージャーだったエプスタインの死後、ビートルズのメンバーはギクシャクした関係が露呈するようになっていきました。シンシアと離婚し、オノ・ヨーコを選んだジョンの新たな夢の追求や、ライブ活動を行いたいというポールの希望などがすれ違いを生じていき、1970年、ビートルズは解散することを宣言するのでした。
1971年 – 31歳「『Imagine』のレコーディング」
ジョンレノンの最大のヒット曲「Imagine」の発表
ビートルズ解散後のジョンは平和推進や反戦活動に力を入れるようになっていきました。オノ・ヨーコとともに作成した「戦争は終わりだ!」の巨大ポスターは世界中の都市に掲げられ、アメリカ政府への痛烈な批判となったのです。
そして、1971年7月、後世に至るまで語り継がれる名曲「Imagine」を発表しました。愛は全てを征服でき、平和を勝ち取ることができると歌ったこの曲は多くの人々の間で、理想と希望のシンボルとなったのです。
1973年 – 33歳「オノ・ヨーコとの離別」
1人の時間の大切さを感じるようになり、オノ・ヨーコと別れることに
ビートルズが解散してから、財産権を巡る争いなどで法的争いが激化していきましたが、その状況下でもジョンは自分の音楽を作ることに精を出し、政治的な活動も継続していきました。しかし、1973年には良きパートナーとして活動をともにしていたオノ・ヨーコと離別をすることになったのです。
離別の詳しい理由は明らかになっていませんが、オノ・ヨーコから見たジョンは1人になるための時間が必要に見えたそうです。しかし、離別後のジョンは精神的に低迷し、猛烈に仕事をするかと思うと、泥酔して騒ぎを起こすなど、乱れた生活を送るようになってしまいました。
1975年 – 35歳「息子ショーンの誕生」
オノ・ヨーコが息子・ショーンを身ごもり、再びともに生活するように
1975年、ジョンとオノ・ヨーコは再び一緒に暮らすようになり、その生活を送る中で、オノ・ヨーコの妊娠が発覚するのでした。そして、10月9日、ジョンと同じ誕生日に、息子・ショーンが誕生します。ジョンは息子の誕生をきっかけに音楽活動の休止を決意するのでした。
1976年にリンゴスターのソロアルバムでピアノを担当した後、完全に音楽の世界から身を引き、主夫となり、オノ・ヨーコを支えることに専念することになったのです。
平和で自由な生活
音楽業界から遠ざかった4年間、スーパースターとは思えないほどの平和で自由な時間を過ごすことになりました。国外への旅へ出たり、音楽以外の新しいことを試してみたりして、自分だけのために与えられた時間を埋めていったのです。
1980年 – 40歳「ニューヨークでの暗殺」
4年ぶりに音楽業界へ
1980年の8月、ジョンはオノ・ヨーコとともにレコーディングスタジオへの仕事に戻ることになりました。休暇を取っている間に心身ともにリフレッシュし、再び音楽への興味が湧いてきたのです。そそして、新しい音楽を発表する準備段階として新たなレコード会社を探したり、インタビューを受けたりするなどまた忙しい日々を送るようになっていきました。
マーク・チャップマンによる銃殺
1980年12月8日、ジョンはいつものようにスタジオへと出かける準備をしていました。いざ、迎えの車に乗ろうとすると、ジョンの大ファンを名乗る男からサインをねだられます。このサインをねだった男がマーク・チャップマンだったのです。
ジョンはその日一日中レコーディングを行い、午後10時頃に引き上げることになりました。黒いリムジンに乗り込み、マンハッタンを通過し、ダコタ・ビルディングへと向かいます。午後10時49分に目的地に到着すると、ジョンはすぐに建物の中へ入ろうとしましたが、その時に背後から「レノンさん?」と声をかけられました。
そして、振り向きざま、リボルバーで5発の弾丸を背中や脇腹に打ち込まれたのです。マーク・チャップマンの仕業でした。
すぐに警察・救急が呼ばれましたが、救急車の到着が遅れたため、パトカーでジョンを近くの病院へ運び込みました。しかし、あらゆる治療がなされましたが、ジョンが息を吹き返すことはありませんでした。病院に到着した時にはすでに息を引き取っていたのです。
ジョンの死を悼む手紙が25万通届く
翌日、世界中のメディアがジョンの悲報を報じ、世界が悲しみで包まれました。連日のように事件現場にはファンが訪れ、花束やお供え物が積み重ねられていきました。そして、ジョンの死を悼む手紙は世界中から25万通も届いたそうです。