ジョンレノンの年表
1940年 – 0歳「ジョンレノンの誕生」
イギリスのリバプールにてジョンレノン誕生
ジョン・ウィンストン・レノンは1940年10月9日、イギリスのリバプールで誕生しました。そして、この日はちょうど第二次世界大戦のドイツ軍による空爆の最中でした。
戦争の最中でもあり、女手一つで子供を育てることが困難だと判断したジュリアは生後6ヶ月のジョンを姉のミミに預けることにしたのです。ミミとその夫のジョージは子供がいなかったため、喜んで子育てを引き受けました。
母・ジュリアはジョンの元を毎日訪れることで親子の愛情を育んでいったのです。
ジュリアとアルフレッドの痴話喧嘩
ジョンが2歳になる頃、ジュリアは別の男の人と暮らすようになります。アルフレッドもそれに気づき、2人の間で小さな諍いが起こるようになっていきましたが、離婚にまでは至りませんでした。しかし、ジョンの6歳になる誕生日の直前、アルフレッドがジョンを連れて海辺のリゾート地ブラックプールへと遊びに行きます。それを知ったジュリアは怒り狂い、ジョンとアルフレッドのいる場所へ押し掛けたのです。
そこで2人の盛大な痴話喧嘩が始まるのでした。そして、その喧嘩の最後に、ジョンは父と母のどちらを暮らしたいのか選べと迫られたのです。これに対し、一度父になびいたジョンでしたが、最終的には母・ジュリアと生活することを選択しました。しかし、当時5歳のジョンはこの事件に衝撃を受け、のちに複雑な性格を作り上げることになるのです。
1945年 – 5歳「優秀なドブデイル小学校へ」
図工の成績が飛び抜けていた
ジョンは5歳になると、ドブデイル小学校へ入学しました。軒並み優秀な成績を修めていたジョンでしたが、算数は苦手な反面、図工の成績はずば抜けて良かったそうです。10歳の時には学校の展覧会でイエス・キリストの絵を描いてその才能を発揮させました。
一方で、ジョンは真面目な優等生というわけではなく、いたずらグループのリーダーとしてクラスを席巻していました。親たちの中にはジョンのことをあまりよく思っていない人もいたようで、自分の子供をあえてジョンに近づけないようにしていた人もいたのです。
グラマー・スクールへ
ジョンは11歳の時に受けたイレブン・プラスに合格し、グラマー・スクールへ通うことになりました。進学したのはクォーリー・バンク校でしたが、この学校は校則が厳しく、ジョンの反抗的な性格に合わなかったのです。小学校の時は優秀だった成績も徐々に降下して行き、無断欠席、制服の規則違反、教師への反抗、喫煙などの問題行動が増えて行きました。
クラブ活動にも所属せず、学校からは遠ざかっていく一方で、身体障害者をモチーフにした絵を描いたり、詩や文章を書いたりするようになっていきました。
1956年 – 16歳「エルビスプレスリーに憧れ、ロックの世界を目指すように」
エンターテインメントの分野で革命が起こる
1955年、映画界では「理由なき反抗」で主演を演じたジェームズディーン、音楽界では1956年にロックン・ロールのエルビスプレスリーが台頭しました。彼らは堅実な道徳をぶち壊し、保守的な大人たちに不満を持っていた若者たちの熱狂的な支持を受けることになるのです。
ジョンは1956年に聞いたエルビスの「Heartbreak hotel」に魅了され、ロックの虜となり、自らも音楽の世界を目指すことを決心するのでした。この曲を聞いてから1週間後にはギターを買い、友達と「クォーリーメン」というバンドを組むことにもなります。
1957年 – 17歳「ポールマッカートニーとの出会い」
リバプールの教会で開いたコンサートでポールマッカートニーと出会う
ジョンは1年ほどでコンサートを開けるほど上達し、1957年7月にはリバプールの教会で演奏を披露することになりました。その時の演奏はまだ完成されていなかったため、観客を魅了するには至りませんでしたが、唯一、15歳の少年を惹きつけることに成功したのです。
それがポールマッカートニーでした。ポールはバンドの演奏が終わるたびごとに拍手を送り、全ての演奏が終了すると、ジョンたちとコンタクトを取ってきたのです。この出会いをきっかけにジョンとポールは意気投合し、「クォーリーメン」にメンバー入りするとともに、ジョンと歌詞の共作を始めるようになるのでした。
1958年 – 18歳「ジョージハリスンを紹介される」
ポールがジョージハリスンをメンバーに加える
ジョンはグラマースクール卒業後、リバプール美術学校に通うようになりましたが、反抗的な態度は変わらない一方で、生徒たちからの人気を勝ち取るようになっていきました。女子からも好かれるようになり、のちに結婚することになるシンシア・パウエルと出会ったのもこの時です。
1958年の初め頃、ポールがジョージハリスンをジョンに紹介することになりました。ギターのうまかったジョージはバンドのメンバーとして迎えられることになり、この3人がバンドの中心的人物となっていくのでした。
1960年 – 20歳「『ザ・ビートルズ』と改名」
ナイトクラブに住み込みで演奏をするように、そしてバンド名を「ザ・ビートルズ」に
ジョン、ポール、ジョージ以外のメンバーは度々変わりながらバンド活動をしていったグループでしたが、小さなクラブやカフェで演奏を繰り返すうちに、ドイツのハンブルグでナイトクラブに住み込んで演奏活動を行うことが許可されたのです。
この頃にはバンド名を「ザ・ビートルズ」と変更し、活動を行っていました。招待されたナイトクラブは観客が椅子を投げたり、舞台に乗り込んだりする乱暴な環境でしたが、ここでの生活のおかげで、音楽が格段に上達していきます。夜中に1日5時間前後の演奏を行い、昼は安アパートで仲間と寝るという生活でしたが、グループが一体となって活動していたため、新鮮な体験となりました。
1962年 – 22歳「EMIとレコード契約を結ぶことに」
ブライアン・エプスタインがマネージャーに
リバプールへと戻ったビートルズはキャバーン・クラブというところで演奏を行っていくことになりました。ある日、この演奏の場を訪れたのが、のちにビートルズのマネージャーとなるブライアン・エプスタインです。彼はすぐにビートルズの虜となり、宣伝活動やレコーディング会社への売り込みを担当することになりました。
しかし、1962年初頭にレコーディングした作品はどれも契約までは至ることはありませんでした。
レコード会社EMIとの契約に成功、リンゴスターの加入
ビートルズは徐々にショーなどにも招かれるようになり、地名度を上げていきましたが、メジャーデビューには程遠い状況が続いていきます。そのさなか、マネージャーのエプスタインがレコード会社EMIとの契約を結ぶことに成功したのです。1962年5月のことでした。
その後、ビートルズはすぐにレコーディングのためにアビーロードのスタジオへと赴くことになり、演奏をすることになりました。しかし、プロデューサーから合格点が出たのはジョンとポール、ジョージのみで、その時にドラマーを担当していたピート・ベストはメンバーから外されることになったのです。
その代わりに紹介されたのがリバプール出身のドラマー・リンゴスターでした。新たなメンバーが加わったビートルズは最初のシングル「Love Me Do」をレコーディングし、1962年10月5日に発売されることになるのです。
シンシア・パウエルとの結婚
1962年の8月、シンシアが子供を身ごもったことを聞いたジョンは、結婚する意思を固めることになります。結婚の日程や式の内容などは全てエプスタインが取り持ち、1962年8月23日に結婚式を挙げることになりました。
1963年 – 23歳「『Please, please, me』で全英1位に」
瞬く間にスター街道を駆けていくビートルズ
「Love Me Do」が世に出ると、ビートルズの知名度は一気に上昇し、1963年1月には初のテレビ出演、2月にはイギリス全土を巡るツアーが開始されました。ファンの数も急増し、「ビートルマニア」と呼ばれるようになります。
また、1963年1月に発売された「Please, please, me」は全英ヒット・チャートで一位を獲得することになったのです。5月に発売された初のアルバム「Please, please, me」もアルバム・チャートの1位を獲得するという偉業を成し遂げました。
「I Want To Hold Your Hand」は世界中で1200万枚を売り上げる
1963年に発売したレコードは軒並みチャート1位を記録し、12月に発売された「I Want To Hold Your Hand」は世界中で1200万枚を売り上げたとされています。
この勢いはアメリカにまで到達し、ニューヨークだけでもビートルズのレコードが1時間に1万枚のペースで売れたと報告されました。