松下幸之助の名言を厳選!人生に行き詰まったときに役に立つ言葉の数々とは

松下幸之助の名言・人生の円熟期を迎えた人に

若い時とは違う役割を見つけよう

人間は誰しも年を取りますが、その時には若い時とは違う役割があります。社会に役立つ若者を育てながら、自分の人生を大切にする方法を松下幸之助の名言から学びましょう。

年齢なんて、人生に関係ない

どんな世代にも可能性がある

志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである。

人は新しく道を切り開くのが本当は好きではありません。人はそれまでいた環境が急に変化するのが怖いのです。しかし、それでも前に進んで行きたいと願う状況は必ず誰にでも生まれてきます。

新しい仕事を始めたい、趣味のサークルに参加したい、結婚したいなど、環境が変わる場合というのは多くあります。この言葉はその人たちを後押ししているとともに、幸之助自信を後押ししていたのではないでしょうか。

多分彼は亡くなるその日まで、何かをしようと志を持ち続けて生きたのだと思います。自分を奮い立たせるための言葉が私たちを動かさないはずはありません。

年を取ると誰も叱ってくれなくなる

昔は叱られるうちが花だとよく言われた

叱ってくれる人を持つことは大きな幸福である。

自分が年を取ると、人を叱ることはあっても叱られることは減ります。そんな状況が普通になってくると、人からの意見を取り入れることもできなくなってきます。

するとさらに独りよがりになり、場合によっては扱いづらいお荷物のような存在になることもあるでしょう。

天下の松下幸之助を叱れる人がいたのか、少々疑問ではありますが、この言葉は真実を語っていると思います。叱られた時にそれを素直に受け入れる人が、最後まで現役で活躍できるのでしょう。ですから、叱ってくれる人がいることは幸福なことなのです。

欲張ったら、そこで経済は停滞する

自分のお金を預かりものと思える人が、
この世に何人いるだろう

自分の金、自分の仕事、自分の財産。自分のものと言えば自分のものだけれど、これもやっぱり世の中から授かったもの。世の中からの預かり物である。

松下幸之助が興した事業はとても大きく発展しました。今や日本でパナソニックの名前を知らない人はいないと言っても良いでしょう。しかし、彼は商売を大きくすることだけを考えず、社会に貢献するために、お金を使っていました。

それが現在の松下幸之助商学院や松下政経塾の設立、浅草寺雷門の再建や慶應義塾大学工学部への寄付でした。

幸之助は自分が欲張って溜め込んでは経済が停滞すると考えていたのでしょう。人間の血液も停滞していては、健康が損なわれます。幸之助は経済を循環させ、日本の国の健康を保ったのではないでしょうか。

人の粗ばかり探していると、疲れます

良いところを多く見つけて声をかければ、花は一層美しく咲くそうだ

人の長所が多く目につく人は、幸せである。

人を育てるときにはいくつかの方法が考えられます。短所と思われるところを徹底的に矯正する方法もあれば、長所を伸ばして短所を補うようにする方法もあります。

どちらにもメリットはあるのでしょうが、どんな人間も短所を指摘されれば嫌な気持ちになるでしょう。長所を伸ばしてあげる方が、気分良く相手に成長してもらうことができるはずです。ですから、人の長所が多く目につく人は、誰かを教育するときも幸せに過ごすことができます。

反対にもし短所が目につく人ならば、教育する相手が嫌な気持ちになることはもちろん、最初に自分が疲れてしまうでしょう。

結局バレますよ

結局本当の色がわかってしまう

人は、あるところでは卑劣に行動しながら、別のところで高徳に振る舞うことは、できないのである。その些細な心の緩みやごまかしが、全体を蝕んでいくのである。人は騙せても自分自身は騙せない。

かつての日本では、きちんと仕事をしていれば、私生活のことはとやかく言わない・言わせないという風潮がありました。

しかし人間性が良くないのに仕事ができるはずがない、と松下幸之助はずばりと核心を突いてきます。それはまさしく今は仕事ができない人間のことも、人間性を見て待っていてくれる、一生懸命に育ててくれることの裏返しです。

この名言は幸之助が今すぐに役立つ人間だけを重んじることがなかったという証拠でしょう。すぐできるインスタントだけの集まりなら、その企業はすぐにダメになってしまうことを彼はわかっていたのです。

死ぬまで生きる、ただそれだけ

今は銅像となって人々を見守っている松下幸之助

私は死の直前まで、運命に素直に従いたい。

松下幸之助は、その年代でやらなければならないことをとことんやって来ました。

若くて頭が柔軟なときには、新しい電器製品を開発して、年齢を重ねるごとに社長として会社を大きく発展させ、人材も育成しました。

さらに社長を引退してからは自らの学校を創設したり、大学などへの多額の寄付を行い、晩年は伊勢神宮の崇敬会の会長まで務めました。

自分のやりたいことだけでなく、目の前の課題を嫌がらずに受け入れ、精一杯こなしていった幸之助は、この言葉のとおりに1989年4月27日、94歳まで生き抜きました。

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