グリゴリー・ラスプーチンとは、帝政ロシア末期に突如として皇室に関わるようになった怪人物です。その異様な風貌や、それに引けを取らない異様な逸話を数多く残す人物でもあり、現在も数多くの創作作品に登場する形で親しまれる人物でもあります。
彼は自称として”祈祷僧”を名乗っていましたが、公的な身分としては農民に過ぎず、しかし何故か当時のロシア皇帝一家から絶大な信頼を得ているという、世界史上で見ても非常に奇怪な人物です。また、彼が皇室にアドバイザーのような形で食い込んだことによって、ロシア帝国の崩壊が結果的に加速したことから、世界史においてはあまり評価の高くない人物であることは間違いないでしょう。
しかし、「では何故、ラスプーチンはロシア皇室から多大な信頼を得たのか?」などのエピソードの部分については、意外と知らない方も多いのではないでしょうか。
そこでこの記事では、そんな世界史上きっての”怪人”であるグリゴリー・ラスプーチンについて、様々なエピソードなどを含めて解説していきたいと思います。
グリゴリー・ラスプーチンとはどんな人物か
名前 | グリゴリー・エフィモヴィチ ・ラスプーチン |
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誕生日 | 1869年1月21日 |
没日 | 1916年12月17日(享年47歳) ※12月30日という説もあり |
職業 | 農民(自称は祈祷僧) |
生地 | ロシア帝国、トボリスク県、 ポクロフスコエ村 |
没地 | ロシア帝国、ペトログラード |
配偶者 | プラスコヴィア・フョードロヴナ ・ドゥブロヴィナ |
子孫 | マリア・ラスプーチナ、 バルバラ・ラスプーチナ |
埋葬場所 | 不明 |
グリゴリー・ラスプーチンの生涯をハイライト
ラスプーチンと呼ばれる怪人物の人生は、シベリアの寒村であるポクロフスコエ村から始まりました。教育水準の低い寒村に生まれ、素行の悪い乱暴者として育ったラスプーチンでしたが、彼はロシア正教会古儀式派のスコブツィ教派の教えに出会ったことで、その指導者として頭角を現すことになります。
その後18歳で結婚したラスプーチンでしたが、彼はその5年後に「修行僧になる」と家族に伝えて村を出奔。数か月後には敬虔な修行僧になった彼は、その熱心な信仰を高く買われ、サンクトペテルブルクへ移住することになりました。
そうしてサンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、神秘主義の流行を追い風として勢力を拡大。皇帝であるニコライ2世の息子であるアレクセイ皇太子の治療も行い、その縁で皇室から非常に重用される存在となりました。
こうして”聖職者”としての地位を高めていったラスプーチンでしたが、その一方で多くの女性と肉体関係を持つなどの醜聞も犯し、次第にロシアの政府内においては「厄介者」として認識されるようになってしまいます。この頃になると政府内ではラスプーチンの暗殺計画が、何度も持ち上がるようになっていたようです。
そして反ラスプーチンの機運が決定的となったのが、第一次世界大戦の開戦でした。皇帝がラスプーチンの意のままに操られている”ように見える”状況が形作られ、これにより議員や貴族を中心に、皇室やラスプーチンへの反感が増大してしまったのです。
そして1916年12月17日、ラスプーチンはだまし討ちに合う形で暗殺されてこの世を去りました。この暗殺に際しては、「青酸カリ入りのお菓子とお茶を与えても殺せず、銃で心臓と肺を撃っても殺せず、最終的には眉間を打ち抜いてからリンチにかけて川に沈めることでようやく殺せた」という信じがたいエピソードが残っており、現在もラスプーチンの神秘的なイメージに拍車をかけています。
皇帝一家の友であり、信用ならない怪僧でもあった
グリゴリー・ラスプーチンという人物の評価は、過去についても現在についても二分されている状態にあると言えます。ある視点からは「聖人」「無私の人」「皇帝一家一番の友」、別の視点からは「異端者」「大悪人」「狂人」といった具合に評され、その評価はほとんど一貫しておらず、一面からの見方で彼の性質を知ることはほとんど不可能です。
例えば一方では彼が活動していた時代において、ロシア皇帝一家から非常に強い信頼を受けていたことが記録され、特にアレクサンドラ皇后や、大皇妃であるミリツァとアナスタシアの姉妹から非常に強い寵愛を受けていました。
また、宮中の貴婦人や貴族の子女からも熱狂的な支持を受けていたことが記録されていますが、これはラスプーチンが常軌を逸した巨根と精力を持っていたことによる、性的な関係に基づく支持であったこともうわさされています。
またそんな支持や寵愛の一方で、議員や貴族などからは「信用ならない怪人物」として強く警戒されており、彼は非常に多くの人物から「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などの批判を受ける人物だったことも記録されています。
世界史的には現代に近いため、記録自体は多く残っているラスプーチンですが、その逸話のほとんどが”噂”や”通説”という形でぼやけているのも大きな特徴。その実像を掴むことは、現在でも不可能だと言わざるを得ないようです。
酒池肉林を楽しんだ首都での私生活
皇帝一家から「聖なる男」「我らの友」などと重用されるようになったラスプーチンは、やがて宮廷内に食い込んで、宮中の貴婦人や貴族の子女から絶大な支持を得る人物となりましたが、私生活は非常に淫乱なものであったと記録されています。
彼の支持基盤は宮廷の女性たちからだったようですが、その支持はラスプーチンの人間性や徳によって集まったものではなく、彼の常軌を逸した30センチ以上の巨根と絶大な精力による性的関係に基づくものであると、当時から宮廷内では噂が尽きなかったようです。
実際に、ラスプーチンの生活を内定した秘密警察の職員は、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載しており、その噂が真実であることを裏付ける証拠となっています。この報告は後に大々的に新聞に取り上げられ、ラスプーチンの失脚を後押しする結果を招きました。
ただし、当時から宮廷内には反ラスプーチンの気運が高まっており、嫉妬混じりにラスプーチンを追い落とそうとする動きがあった事にも留意する必要はありそうです。
”不死の怪人・ラスプーチン”の死因と謎
グリゴリー・ラスプーチンという人物が、現代において様々な作品に取り上げられる怪人となったのは、ほぼ間違いなくその死因である暗殺にまつわるエピソードが大きいでしょう。その死に関する記録のほとんどが処分されていることも、その謎めいた印象に拍車をかけています。
暗殺のために実行犯である貴族の宮殿に呼び出されたラスプーチンは、まずは用意された青酸カリ入りのケーキと紅茶を飲まされました。しかしラスプーチンは毒を飲んだにもかかわらずピンピンしており、朦朧とした様子もないまま議論を交わせる状態だったと言います。
しかしワインに毒が入っていると知らないラスプーチンは、それを浴びるように飲んでしまい泥酔。こうしてできた隙に暗殺犯であるフェリックス・ユスポフは拳銃を二度発砲。銃弾は心臓と肺を貫通し、ラスプーチンは床に倒れました。
しかしラスプーチンはそれでも死なず、目を開いて逃げようとしました。逃げるラスプーチンはまたも銃弾を受け、その弾丸は背骨を貫通しましたが、彼はそれでも死なずに逃げ続けようとしたことが記録されています。
しかし満身創痍のラスプーチンは追いつかれてしまい、最終的には靴で右目を陥没するほどに殴られ、額に銃撃を受けてようやく動かなくなりました。その動かなくなった体は簀巻きにされて、凍った冬の川に放り込まれたと記録に書かれています。
そして暗殺の二日後、ラスプーチンの遺体が発見。検死の結果は「頭部の狙撃による失血死」であるとされていますが、報告書が消失しているため現在も死因については議論が成されています。特に「川に放り込まれたことによる溺死」という通説は根強く囁かれているようです。
現代に描かれるラスプーチン
外見もエピソードも非常に濃い人物であるラスプーチンは、現代においては様々な娯楽作品の常連として、多くの人に名前を知られる人物となっています。また、性的なエピソードが多い彼らしく、現在のロシアではストリップ・クラブなどの性風俗店に、ラスプーチンの名を冠した店が非常に多く見られるそうです。
娯楽作品においては、例えば映画では2020年に公開された『キングスマン: ファースト・エージェント』にて、リス・エヴァンス氏が演じたラスプーチンの姿が、最も記憶に新しいラスプーチンであるかと思います。
アニメーションやゲームにおいてもラスプーチンは非常に多くの作品に登場し、特に『Fate/Grand Order』に登場するラスプーチンは、シナリオにおける重要な役割と原作ファンへのサービスを両立する、非情に美味しい役どころとして登場しています。
他にも漫画『ドリフターズ』や、アニメ作品である『Blood+』など、ラスプーチンが登場する作品は枚挙に暇がありません。また、彼の怪奇的なエピソードの解釈が作品ごとに違っているのも、彼が非常に面白い人物であることの証左だと言えるでしょう。
グリゴリー・ラスプーチンのエピソード
その1「祈りによって血友病を治療した?」
ラスプーチンが皇帝一家から強い信頼を受けるようになったのは、「祈りによって血友病を治療した」という信じがたいエピソードによるものだと言われています。
当時のロシア皇太子だったアレクセイは、先天的な血友病の患者として生まれてしまい、そのため少しのケガが命の危険につながるような非常に危険な状態に置かれ、かつ皇室の侍医も手が付けられないような状況にありました。
そして、そんなアレクセイの治療に当たったのが、当時サンクトペテルブルクで信者を増やしていたラスプーチン。宮殿に招かれた彼が祈りを捧げると、その翌日にはアレクセイの症状は治まっていたと記録が残されています。
ただ、現在ではこの”祈祷”について、実はアスピリンの投与による沈痛治療であったという見方が多数派です。とは言え当時の価値観において、ラスプーチンが「奇跡の人」と呼ばれるほどに信頼を受けていたことは事実となっています。
その2「暗殺されても生き残った”不死と悪運の怪人”」
死に際の生命力の強さがクローズアップされがちなラスプーチンですが、何度暗殺されかけても生き延びる悪運の強さも、彼を語る上では欠かせない要素だと言えます。
ラスプーチンの暗殺が初めて実行されたのは、実はその死の約2年前である1914年。故郷に帰郷していたラスプーチンを刺客が短剣で襲ったことが、公的に残る最初のラスプーチンへの暗殺の実行でした。
この時ラスプーチンは腹部を刺される重傷を負っていますが、彼はなんと手近な棒で反撃。しかも腹部を刺されながら約1日を自宅で耐えて過ごし、彼が腹部の治療を受けたのは刺された翌日であったのだと言います。
その後も何度かラスプーチンは暗殺計画を立てられていますが、それらはいずれも計画者の側で実行される前に瓦解して失敗に終わっています。その強靭な生命力だけではない悪運もまた、ラスプーチンの”怪人”らしさを高めるファクターなのかもしれません。
その3「ラスプーチンは聖人か?狂人か?」
生前から非常に評価の分かれる人物だったラスプーチンですが、その評価の分断は実は現代においても続いています。
現代のロシアにおいて、ラスプーチンはロシア正教会のニコライ・グリャノフ氏や一般国民の多数からは「義人である」という評価を受け、好意的なニュアンスで語られることも決して少なくない人物になっているようです。
しかしその一方で、2008年までロシア総主教を務めたアレクシイ2世からは「イヴァン4世、ヨシフ・スターリンとならぶ狂人である」として公然と批判を受けているなど、やはり生前同様に厳しい見方をされる側面も多く見受けられています。
「聖人か狂人か」という二極化した評価に晒され続けているラスプーチンという人物。それは彼自身の奇怪なエピソードに根差すものでもありますが、だからこそ彼に纏わりつく神秘性をより高める結果にもつながっているようです。