グリゴリー・ラスプーチンにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「現代にも残る性豪・ラスプーチンの証拠!?」
超人的な精力による肉体関係で、宮廷中の女性を手籠めにしたと噂されるラスプーチン。女性の敵であり、ある意味で男のロマンとも言える彼の生き様ですが、そんな彼の”凄まじさ”を示す”あるもの”が、現在のロシア・エロチカミュージアムに残されていることはご存じでしょうか?
その”あるもの”というのは、なんとラスプーチンのペニスのホルマリン漬け!28センチという巨大なペニスの標本が、サンクトペテルブルクの博物館に飾られている異様な光景は、上記の画像を見てみるだけでも開いた口が塞がらないこと請け合いです。
とはいえ、このペニスが本当にラスプーチンのものなのか、という点については議論の余地が残されており、専門家の間では馬か牛のペニスであるという説が一般的となっています。
とはいえ議論の接結となったのが、娘のマリアによる「父のペニスはもっと大きい」という発言だったということが、ラスプーチンの凄まじい性豪エピソードを一層高めているように筆者には感じられました。
都市伝説・武勇伝2「実はかなりの平和主義者だったとも」
「怪人」「漁色家」といったイメージが先行し、結果的に帝政ロシアの崩壊を速めた人物として悪名を知られるラスプーチン。そんな彼の失脚を速めたのは第一次世界大戦ですが、実は彼の思想には、現代に通じる部分もありました。
ロシアの戦争への参戦について否定的な立場をとっていたことが、その一番の証拠だと言えるでしょう。
ラスプーチンに反目する勢力からは「民主主義の敵」や「ドイツの代理人」などと糾弾されていましたが、実は彼がロシアの戦争行為に賛成したことは生涯に一度もなく、彼は一貫してロシアの戦争に対する反発姿勢を取り続ける平和主義者でもあったのです。
また、自身の暗殺の動きが顕在化して、もはや死が逃れられないものになったことを悟った彼は、自分が死ぬ前に財産を全て娘の口座に移しておくなど、自身の死後の家族を心配する一面も見せています。
イメージとは裏腹に、平和主義で家族を思いやる人物であったことも、彼を両面的に見るにあたっては必要な情報であるかと思います。
グリゴリー・ラスプーチンの生涯年表
1869年 – 0歳「後の”怪僧”の誕生」
貧しい田舎町での誕生
1869年1月、グリゴリー・ラスプーチンはシベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫の第5子として生を受けました。彼の名前であるグリゴリーは、4世紀の神学者であるニュッサのグレゴリウスから取って名づけられたものだと記録されています。
首都から遠い寒村に生まれ、識字教育も満足に受けられなかったラスプーチンは、村の中でも鼻つまみ者として嫌われる、素行不良の乱暴者として成長していくことになりました。
”神の教え”との出会い
粗暴な乱暴者として成長していたラスプーチンでしたが、少年期から青年期の間に、彼はロシア正教会古儀式派のスコブツィ教派の教えと、運命的な出会いを果たすことになりました。
「犯した罪を告白し、改めることで神に近づける」という教えに傾倒したラスプーチンは、識字こそ満足にできなかったものの、その真面目な態度によって次第に熱心な宗教者として評価を受けることになっていきます。
1892年 – 23歳「修行僧としての目覚め」
マリヤの啓示を受ける
18歳の頃にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚したラスプーチンでしたが、この年に彼は突如として村を出奔。数か月の間、両親や妻との交流を絶って、修道院での修行に明け暮れる日々を送ったと言われています。
この出奔に際して、ラスプーチンは「聖母マリヤの啓示を受けた」と語っていたとされていますが、その真相は彼の頭の中にしかないため、詳細は想像するしかありません。
1905年 – 36歳「サンクトペテルブルクへ赴く」
サンクトペテルブルクへ
修行を終えて村に戻ってからも、ラスプーチンは度々村を出奔。多くの場所の修道院を巡り、その熱心な姿勢はいずれも高く評価されたと伝わっています。
そして1905年、彼はサンクトペテルブルクへ赴き、そこで人々を治療することで信者を獲得。サンクトペテルブルクにおいて、ラスプーチンは一躍時の人となりました。
皇室との謁見
当時のサンクトペテルブルク、とりわけ宮廷では神秘主義(オカルティズム)が盛んに流行を見せており、特に大皇妃であるミリツァとアナスタシアの姉妹は、そのブームに非常に傾倒していました。
そんな流行も手伝ってか、「神秘の力で民衆を治療している」というラスプーチンは彼女たちとの謁見を許されることに。そしてそこで気に入られたラスプーチンは、更に皇帝であるニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見することになりました。
こうして皇室に顔を知られたラスプーチン。もしかするとこの時点が彼の絶頂期であり、彼が後に辿る運命の転換点だったのかもしれません。
皇室の皇は日本の皇室だけです。よその国には使わないです。