グリゴリー・ラスプーチンとはどんな人?生涯・年表まとめ【死因も紹介】

1907年 – 38歳「アレクセイ皇太子の治療にあたる」

アレクセイ皇太子の治療によって、ラスプーチンは皇室から重用されるようになった。

アレクセイ皇太子の治療

皇帝一家との謁見により、サンクトペテルブルクで活動を行うようになったラスプーチンは、この年に皇帝夫妻に頼まれて、血友病に苦しむアレクセイ皇太子の治療にあたります。

皇室お抱えの侍医にも手のつけようがないその病状に、多くの貴族や医者が「治せるわけがない」と疑っていましたが、なんとラスプーチンが祈りを捧げたことで、アレクセイ皇太子の病状が快復。これによってラスプーチンは、皇室から絶大な信頼を得ることになりました。

「聖なる人」の抱える闇

ラスプーチンとその信者たち。見事に女性ばかりが集まっていることが、彼の特異性を象徴する。

アレクセイ皇太子の治療によって、皇帝夫妻から「聖なる人」「我らの友」と呼ばれるまでに至ったラスプーチンですが、その絶大な信頼は強い影を生む結果にもなりました。

元より好色な気質の持ち主だったラスプーチンですが、この頃になると彼には常に背教の疑いが欠けられるようになります。宮廷内に多くの女性信者を持ち、そのような女性たちと淫乱な生活を送っている――そんな風聞が新聞で取り上げられたことで、世間には反ラスプーチンの機運が起こる事になってしまったのです。

実際、この頃のラスプーチンが大層な酒池肉林の生活を送っていたことは事実であるようで、そのような側面を持ちながらも皇室には重用されるという評価のギャップも、彼やロマノフ王朝の命運を決定づける遠因となってしまいました。

1914年 – 45歳「暗殺未遂事件が勃発」

暗殺未遂によって入院中のラスプーチン

ラスプーチン暗殺未遂

1912年ごろから、徐々に議会や貴族などを中心に反ラスプーチンの機運が増大。しかし皇室は一貫してラスプーチンを庇い続け、もはや議会と皇室の対立は避けがたいものになりつつありました。

そのような中で1914年、帰郷していたラスプーチンを刺客が襲撃すると言う暗殺未遂事件が発生。ラスプーチンは腹部を刺される重傷を負いながらも刺客を返り討ちにして九死に一生を得ますが、この事件は彼の心に影を落とす結果となりました。

ヤール・レストラン事件

ヤール・レストラン事件は、反ラスプーチンを掲げる者たちによるでっち上げとする説が一般的。

暗殺未遂事件から約1年が経った1915年、ラスプーチンはヤール・レストランの前で女性に向けて下半身を露出するという、ヤール・レストラン事件と呼ばれる事件を起こしたと報告されています。

しかしこの事件には非常に不可解な点が多く、警察組織の捜査が行われた様子もほとんどないため、現在は「ラスプーチンの失脚を狙った、議会や貴族派閥による自作自演」として考える方が一般的です。

1915年 – 46歳「高まり続ける”反ラスプーチン”」

皇室を操るラスプーチンを描いた風刺画。

皇室を操る男?

第一次世界大戦の長期化と、それに伴う食糧の不足や戦死者の増加により、国民感情は”反皇室”――ひいては”反ラスプーチン”へと流れ、もはや止めようもなくなっていきました。

特に「皇室に取り入って、皇帝と皇后を操っている」と目されたラスプーチンへの反感は抑えが効かないほどに高まりを見せ始め、アレクサンドラ皇后が内政をラスプーチンに任せたこともまた、その機運に油を注ぐことになってしまいました。

こうして市民や議会、貴族からも厳しい目を向けられることになったラスプーチン。しかしアレクサンドラ皇后はラスプーチンに反する者を次々と罷免しようとするなどの暴挙に出てしまい、結果的にこの対立は泥沼化していくことになります。

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