「エリーザベトってどんな人なのかな?」
「ミュージカルを見て、どういう人なのか知りたくなった!」
エリーザベトはオーストリア=ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世の皇后です。美しい容姿と、奔放な性格を持っている彼女は、皇后としての評価は決して高いとはいえませんが、ミュージカルで日本でも親しまれ、宝塚でも人気の演目といわれています。
そして当時二重帝国だったオーストリアにおいて、ハンガリーの文化に非常に興味を持ち親交を深めたために、現在でもハンガリーで人気の皇后でもあるのです。そんな「破天荒な」皇后は一体どのような人物だったのでしょうか?
この記事ではエリーザベトの生涯や人物像を、功績や死因などと共に解説していきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
エリーザベトとはどんな人物か
名前 | エリーザベト・アマーリエ ・オイゲーニエ・フォン ・ヴィッテルスバッハ (ドイツ語: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach) |
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誕生日 | 1837年12月24日 |
没日 | 1898年9月10日 |
生地 | バイエルン王国・ミュンヘン |
没地 | スイス国・ジュネーブ |
配偶者 | フランツ・ヨーゼフ1世 |
埋葬場所 | オーストリア=ハンガリー帝国、 ウィーン、カプツィーナ納骨堂 |
エリーザベトの生涯をハイライト
エリーザベトの生涯を簡単にダイジェストします。なお、日本では「エリザベート」という名前の方がミュージカルの影響で知名度がありますが、ドイツ語表記の「エリーザベト」で統一したいと思います。
- 1837年:バイエルン王家の傍系のバイエルン公マクシミリオンとバイエルン王女ルドヴィカの間の次女として生まれる
- 1854年:姉のヘレーネのお見合い相手のフランツ・ヨーゼフ1世に見染められ結婚する
- 1858年:長男ルドルフ誕生
- 1867年:普墺戦争でオーストリアが敗北する
- 1868年:ハンガリー王国の自治権を認める時にオーストリアとの架け橋となる
- 1872年:姑ゾフィー大公妃薨去
- 1889年:息子のルドルフ皇太子が自殺する
- 1898年:スイス国ジュネーヴでイタリアの無政府主義者ルイジ・ルケーニに暗殺される
ヨーロッパで一番の美貌といわれた皇后
エリーザベトはヨーロッパ一といわれる美貌を誇りました。そしてその美貌を保つための努力も惜しまなかったそうです。身長は172センチという長身に、体重は43㎏~47㎏、ウエスト50センチという驚異のボディーを持っていましたが、出産や年をとっても体型を維持するために、数々の過酷なダイエットをしていたそうです。方法は数時間にも及ぶ早歩きやフェンシング、吊り輪に至るまで行っていたといいます。
また美容にも人一倍気を使い、長い髪の手入れに2~3時間かけて、卵の黄身とコニャックをブレンドしたものを毎日使っていたそうです。そして侍女が彼女の髪を誤って抜こうものなら厳しくしかりつけていたといいます。本人も自らを「髪の奴隷」と語っていたそうです。
エリーザベトは、イギリスのアレクサンドラ妃とどちらが美しいかを気にしていたといいます。実際のアレクサンドラ妃は、美しいものの、首に手術痕があったり、プロポーション的にもエリーザベトの方が優れていたと評価されています。
容姿は人によって好みもそれぞれなので一概に評価はつけにくい所ですが、写真や肖像画を見る限り、二人とも美しく気品を兼ね備えているように見えます。しかし他と比べてしまうのは、妃たちの女心なのかもしれません。
皇后でありながら君主制に否定的だった
エリーザベトはハプスブルク家という伝統的な家に嫁ぎ、皇后になったにもかかわらず君主制に否定的だったといわれています。理由は彼女がお妃教育を受けている時に、オーストリア帝国の歴史を教えたマイアット伯爵が、共和制の素晴らしさを彼女にこっそり教えたからともいわれています。
そのためエリーザベトはドイツの公爵家出身でありながら、君主制・貴族性を否定し、王侯貴族を激しく批判したりするようになっていきました。このことは当然ハプスブルク家で受け入れられるわけはなく、家族の中でも孤立していくこととなります。
そして革命詩人といわれる「ハインリヒ・ハイネ」を好み、彼の事を「師」と呼んでいたそうです。「マルクス」と親交があったというハイネの作品は、政治的批評をした風刺詩や時事詩を多く発表している詩人でした。そんなハイネの作品をエリーザベトは知り尽くしていて、わざわざ専門家がエリーザベトに教えを乞いにきたというエピソードが残っています。