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エリーザベト(オーストリア皇后)とはどんな人?生涯や関連作品を紹介

「エリーザベトってどんな人なのかな?」
「ミュージカルを見て、どういう人なのか知りたくなった!」

エリーザベトはオーストリア=ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世の皇后です。美しい容姿と、奔放な性格を持っている彼女は、皇后としての評価は決して高いとはいえませんが、ミュージカルで日本でも親しまれ、宝塚でも人気の演目といわれています。

エリーザベト、絵を見ても美貌の持ち主であることがわかる

そして当時二重帝国だったオーストリアにおいて、ハンガリーの文化に非常に興味を持ち親交を深めたために、現在でもハンガリーで人気の皇后でもあるのです。そんな「破天荒な」皇后は一体どのような人物だったのでしょうか?

この記事ではエリーザベトの生涯や人物像を、功績や死因などと共に解説していきます。

エリーザベトとはどんな人物か

名前エリーザベト・アマーリエ
・オイゲーニエ・フォン
・ヴィッテルスバッハ
(ドイツ語:
Elisabeth Amalie
Eugenie von Wittelsbach)
誕生日1837年12月24日
没日1898年9月10日
生地バイエルン王国・ミュンヘン
没地スイス国・ジュネーブ
配偶者フランツ・ヨーゼフ1世
埋葬場所オーストリア=ハンガリー帝国、
ウィーン、カプツィーナ納骨堂

エリーザベトの生涯をハイライト

エリーザベトの生涯を簡単にダイジェストします。なお、日本では「エリザベート」という名前の方がミュージカルの影響で知名度がありますが、ドイツ語表記の「エリーザベト」で統一したいと思います。

  • 1837年:バイエルン王家の傍系のバイエルン公マクシミリオンとバイエルン王女ルドヴィカの間の次女として生まれる
  • 1854年:姉のヘレーネのお見合い相手のフランツ・ヨーゼフ1世に見染められ結婚する
  • 1858年:長男ルドルフ誕生
  • 1867年:普墺戦争でオーストリアが敗北する
  • 1868年:ハンガリー王国の自治権を認める時にオーストリアとの架け橋となる
  • 1872年:姑ゾフィー大公妃薨去
  • 1889年:息子のルドルフ皇太子が自殺する
  • 1898年:スイス国ジュネーヴでイタリアの無政府主義者ルイジ・ルケーニに暗殺される

ヨーロッパで一番の美貌といわれた皇后

代表的なエリーザベトの写真、確かに美しい姿をしている

エリーザベトはヨーロッパ一といわれる美貌を誇りました。そしてその美貌を保つための努力も惜しまなかったそうです。身長は172センチという長身に、体重は43㎏~47㎏、ウエスト50センチという驚異のボディーを持っていましたが、出産や年をとっても体型を維持するために、数々の過酷なダイエットをしていたそうです。方法は数時間にも及ぶ早歩きやフェンシング、吊り輪に至るまで行っていたといいます。

また美容にも人一倍気を使い、長い髪の手入れに2~3時間かけて、卵の黄身とコニャックをブレンドしたものを毎日使っていたそうです。そして侍女が彼女の髪を誤って抜こうものなら厳しくしかりつけていたといいます。本人も自らを「髪の奴隷」と語っていたそうです。

イギリスのアレクサンドラ妃

エリーザベトは、イギリスのアレクサンドラ妃とどちらが美しいかを気にしていたといいます。実際のアレクサンドラ妃は、美しいものの、首に手術痕があったり、プロポーション的にもエリーザベトの方が優れていたと評価されています。

容姿は人によって好みもそれぞれなので一概に評価はつけにくい所ですが、写真や肖像画を見る限り、二人とも美しく気品を兼ね備えているように見えます。しかし他と比べてしまうのは、妃たちの女心なのかもしれません。

皇后でありながら君主制に否定的だった

帝国の皇后でありながら君主制に否定的だったという

エリーザベトはハプスブルク家という伝統的な家に嫁ぎ、皇后になったにもかかわらず君主制に否定的だったといわれています。理由は彼女がお妃教育を受けている時に、オーストリア帝国の歴史を教えたマイアット伯爵が、共和制の素晴らしさを彼女にこっそり教えたからともいわれています。

そのためエリーザベトはドイツの公爵家出身でありながら、君主制・貴族性を否定し、王侯貴族を激しく批判したりするようになっていきました。このことは当然ハプスブルク家で受け入れられるわけはなく、家族の中でも孤立していくこととなります。

革命詩人と呼ばれたハイネの詩をエリザーベトは知り尽くしていたという

そして革命詩人といわれる「ハインリヒ・ハイネ」を好み、彼の事を「師」と呼んでいたそうです。「マルクス」と親交があったというハイネの作品は、政治的批評をした風刺詩や時事詩を多く発表している詩人でした。そんなハイネの作品をエリーザベトは知り尽くしていて、わざわざ専門家がエリーザベトに教えを乞いにきたというエピソードが残っています。

自由奔放な性格だったエリーザベト

父のマクシミリオンの自由奔放さが影響したといわれる

エリーザベトの性格を端的に言うと、「自由奔放な自分勝手の我儘な女性」です。彼女は堅苦しい宮廷の生活が苦手で、うつ病となり療養生活を送ったり、夫と同行して外国を訪問する、病院を慰問するなど外に出てばかりで宮廷に寄り付かない人だったといいます。

こういった性格や行動は姑のゾフィー大公妃は当然快く思っておらず、600年以上に渡るハプスブルク家のしきたりを厳格に教育しますが、結局エリーザベトは生涯宮廷生活に馴染むことはありませんでした。

ゾフィー大公妃は厳しくエリーザベトを后妃として躾ようとした

ただし自由奔放な発想のために「君主制」に否定的な、進歩的な女性といわれることもあります。しかし君主制を否定していながらも、皇后としての責務は放棄しながらも特権だけ享受し続けて、皇后としての莫大な資産を使って旅行や買い物で浪費を続けています。

エリーザベトの贅沢は凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入や、美容費や城の建設など税金で贅沢の限りを尽くしていたといいます。そのため当時のベルギー大使夫人は「この女性は本当に狂っています。こんな皇后がいるのにオーストリアが共和制にならないのは、この国の国民がまだ寛大だからです」と評しています。

息子の衝撃的な情死

皇太子は祖母のもとで厳しい教育を受けたがいつしか自由主義的考えとなっていったという

エリーザベトの息子ルドルフ皇太子は、1889年に男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死を遂げています。もともと皇太子は自由思想が強く、父帝に反抗して政治上の意見の不一致で険悪になっていました。そんな中での不審死だったのです。

銃声が聞こえてきたために執事が駆けつけてみると、ルドルフとマリーが血まみれで倒れていたといいます。傍らには拳銃が落ちていて、公式には「心臓発作」と公表されましたが、じきに「情死」としてヨーロッパ中に知れ渡ることとなりました。

マリー・フォン・ヴェッツェラ

皇太子の養育は姑のゾフィーが行っていたために、ほとんど接する機会が少なかったというエリーザベトは、皇太子の死によって「もっとあの子に何かしてあげれば良かった」と悔やんでいたといいます。

エリーザベトの死因

当初、王妃は刺されたことに気づいていなかったらしい

エリーザベトは1898年に、スイスのジュネーヴでイタリアの無政府主義者ルイジ・ルケーニによって暗殺されました。当時スイスは無政府主義者の活動が活発で、旅行前から懸念されていましたが、エリーザベトは無視して旅行に来ていたのです。

レマン湖に渡る船着き場へ行こうとするエリーザベトにぶつかり、鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなやすりを心臓を刺され、まもなく崩御しました。犯人は「王族だったら誰でも良かった」と供述したそうです。享年60歳でした。

エリーザベトに関連する主なだった人物

ミュージカル「エリザベート」のポスター

ミュージカル「エリザベート」にも登場する、エリーザベトの周りの人物を簡単に紹介します。エリーザベトだけでなく、周りの個性あふれる人物たちがミュージカル向けで好まれたのかもしれません。

フランツ・ヨーゼフ1世

フランツ・ヨーゼフ1世

エリーザベトの夫でオーストリア・ハンガリー帝国の実質的な最後の皇帝です。元々はエリーザベトの姉とお見合いの予定でしたが、一緒にいたエリーザベトに一目ぼれをし母の反対を押し切って結婚しています。

フランツ・ヨーゼフ1世は、終生エリーザベトを愛し続け、妻の我儘にもお金を出し続けたそうです。そして執務室の机の前には彼女の肖像画が飾っていたといいます。ほとんどウィーンにいない妻でしたが、それでも愛していたのだとロマンス的に現在も語られています。

ゾフィー大公妃

ゾフィー大公妃

フランツ・ヨーゼフ1世の母でエリーザベトの姑です。ミュージカルで口うるさい姑のイメージがありますが、当時の価値観からいうとゾフィー大公妃の方が常識的でした。宮廷のしきたりが第一の考えで、エリーザベトに厳しい教育を施し事あるごとに対立したといいます。

しかしゾフィーの最期を看取ったのは、長年の確執があったエリーザベトであり、二人は最後にして和解したといわれています。

ルドルフ皇太子

ルドルフ皇太子

エリーザベトの息子でオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子でした。しかし母に似て自由主義的な思想を持ち、ウィーンの下町に遊びに行ったりと素行に問題がありました。

そんな中ルドルフ皇太子は親しくなった男爵令嬢と共に、自殺をしてしまいました。この出来事はエリーザベトに大きなショックを与え、彼女は皇太子の死後からずっと終生喪服を着続けていたといいます。

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