エリーザベト(オーストリア皇后)とはどんな人?生涯や関連作品を紹介

エリーザベトの都市伝説「ルートヴィッヒ2世と仲が良かった?」

ルートヴィッヒ2世、夢想家で宮廷嫌いなところが気が合ったらしい

エリーザベトはバイエルン王のルートヴィッヒ2世と仲が良かったといいます。二人は精神を病んでいて、浪費家で夢想家だという共通点があったため、非常に意気投合していたそうです。一説にはルートヴィッヒ2世はエリーザベトに恋をしていたといわれています。

ただしルートヴィッヒ2世は同性愛者だったので、純粋に憧れていただけなのではとも考えられています。エリーザベトは彼の前途を心配して妹のゾフィーを紹介し婚約までしていますが、ルートヴィッヒが興味を示さず破談となったのです。

ゾフィー王女、美しい方に感じるがルートヴィッヒ2世は興味を示さず破談となっている

このことでエリーザベトは激怒し、二人の仲は急速に悪化したそうです。このことがルートヴィッヒ2世の精神病の悪化と国費の浪費に拍車をかけたともいわれています。

エリーザベトの生涯年表

1837年 – 0歳「バイエルン王家の王女として生まれる」

父マクシミリオンも街に出てチター奏者に扮したりしていたという
出典:Wikipedia

バイエルン王家の傍系の父、バイエルン公マクシミリオンと、母バイエルン王女ルドヴィカの間の次女として生まれました。王族の家系とはいえ、皇位からは遠く公爵家ではあるものの比較的自由な幼少期を過ごしたといわれています。時には父と一緒に街に繰り出したり、狩りに出たりとお転婆で自由気ままな生活を送っていたそうです。

1853年 – 16歳「フランツ・ヨーゼフ1世が一目ぼれし結婚する」

姑のゾフィーはこの頃からエリーザベトに皇后が務まるのか不安を抱いていたという

1853年に姉のヘレーネのお見合いに来たフランツ・ヨーゼフ1世が、妹のエリーザベトを見初めて求婚し結婚が決まりました。彼女は結婚に非常な不安を抱いていたといいます。そしてお妃教育が始まったのですが、不真面目で勉強嫌いな彼女は何回もヒステリーを起こしていたといいます。

姑のゾフィー大公妃もエリーザベトの「幼さ」を気にして結婚を反対したそうですが、この時フランツ・ヨーゼフ1世は人生で初めて母の言うことを聞かなかったそうです。1854年に結婚し皇后となりました。

1858年 – 20歳「長男ルドルフが誕生する」

ルドルフ皇太子は祖母の元で厳しい教育を受けたという

宮廷が窮屈で仕方がないエリーザベトでしたが、待望の長男ルドルフが誕生します。この頃には姑のゾフィーとの仲は険悪になっており、息子も養育させてもらえず取り上げられてしまっています。エリーザベトへの教育は周りの雰囲気も悪くなってしまうほど厳しかったといわれています。

ゾフィー大公妃にとって「子供の養育を任せられない」と判断されてしまったのです。それからは子供と会うこともままならない毎日となりました。

病気療養のために大西洋のマディラ島に滞在する

絶海の孤島のマディラ島療養はエリーザベトにとっては安らぎとなったようだ

この頃エリーザベトは肺結核となり、空気が良い所で療養するためにマディラ島で2年過ごしてます。しかし公式には「肺結核」ですが、実は夫の浮気の噂と姑の確執が原因の「うつ病」ではないかといわれています。

この頃には、「とても美しいオーストリア皇后」と評判になり始め、「自分は美しくなければならない」という考え方が芽生えるようになってきたといいます。そして宮廷が苦手で子供を取り上げられたという心の隙間を、美容に熱を入れることで解消していくようになります。

1867年 – 29歳「オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する」

ハンガリー王妃戴冠式時のエリーザベト

1867年にオーストリアの一部だったハンガリーが自治権を持ち、「オーストリア皇帝兼ハンガリー国王」と軍事・外交・財政のみ共有し、その他はオーストリアとハンガリーが独自に政治を行うという連合国家となりました。

この時にエリーザベトは影の推進者の役割を果たしたといわれています。エリーザベトは手紙を夫に送って連立国家の成立に貢献したそうです。

1872年 – 34歳「姑ゾフィーが薨去する」

晩年のゾフィー大公妃(写真の中央)

長らくエリーザベトと確執があったゾフィー大公妃は、皇帝の弟の死により気落ちし生きる活力が無くなっていったといいます。そんな中1872年にゾフィー大公妃は肺炎にかかり薨去しました。最期寝込んでいる姑をエリーザベトは必死に看病し、最期を看取ったといいます。ゾフィー大公妃は最期になってエリーザベトと和解したといわれました。

1 2 3 4 5

コメントを残す