小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

エリーザベト(オーストリア皇后)とはどんな人?生涯や関連作品を紹介

エリーザベトの功績

功績1「オーストリア=ハンガリー帝国の二重帝国親善に貢献したこと」

当時オーストリア帝国とハンガリー帝国と違う民族で連立した国家だった

宮廷嫌いで皇后の責務を放棄し続けたエリーザベトが、唯一興味を抱いたのがハンガリーだったといいます。そのためにハンガリー語を勉強し、皇帝とハンガリー貴族の通訳が出来るほどだったそうです。そしてハンガリーが自治権を得ることが出来るように、夫に働きかけたといいます。彼女の働きかかけもあり、1867年にハンガリーの自治権が認められ、ハンガリー王国が出来たのでした。

ハンガリーでは今でもエリーザベトのグッツが沢山お土産品として販売されている

姑のゾフィー大公がマジャル人(ハンガリー人)嫌いなのも、エリーザベトのハンガリーへの興味に拍車をかけたといわれています。侍女もマジャル人で固めて、娘にもハンガリー語を教えたそうです。そうした姿勢もあり、今でもエリーザベトはハンガリーで絶大な人気があるのです。

オーストリア=ハンガリー二重帝国とは?歴史年表まとめ【成立から崩壊まで詳しく紹介】

功績2「皇后とは思えぬ親しみで病院を慰問したこと」

慰問の時に病人の手を取り励ましたという

エリーザベトは積極的に病院の慰問しています。その時に彼女は、死を間近にした人の手を握って励ましたそうです。患者は驚き、そして感激し涙を流したといいます。

20世紀にイギリスのダイアナ皇太子妃が、エイズやハンセン病患者と握手したことに皆が「皇太子妃でありながら」と驚き賞賛しました。20世紀でさえ王族に感染が懸念される病院で、患者と接触ということは考えられない時代でした。

「困った皇后」のエリーザベトが今も人気の理由の一つなのかもしれない

そのように考えると、エリーザベトの行動は時代を先取りしており、「親しみやすい王族」の前身だったのかもしれません。

エリーザベトの残した言葉

15歳という若さで結婚が決まり不安が大きかったことだろう

「結婚というものは不合理な制度。15歳の子が身売り同然に嫁がされる」

エリーザベトが結婚の前に、漏らした言葉といわれています。彼女は家族にも不安で仕方がないと話していたといい、ドイツで気ままに暮らしていたのに突然歴史あるハプスブルク家に嫁ぐということには戸惑いがあったのでしょう。しかし生涯宮廷生活には馴染めませんでしたが、夫婦仲は良好だったというのが不幸中の幸いといえます。

新しい精神治療法にも非常に興味を持っていたという

「気づかなかったのですか?」

これは生涯、精神疾患に悩まされたエリーザベトが、自分の為の精神病院を作ろうというアイデアを面白がり言った言葉です。エリーザベトは新しい精神治療に興味を抱いていたといいます。窮屈な生活で「対人恐怖症」になってしまったり、「黄金の檻」と揶揄される宮殿が如何に彼女を苦しめていたかわかるエピソードです。

ルドルフ皇太子の遺体

「もっと愛情を注いでやれば良かった」

息子ルドルフ皇太子が亡くなったときにいった言葉です。二人は離れて育ったために、どこかわだかまりがずっとあったといいます。しかし突然の死にエリーザベトはショックを受け、息子と疎遠になっていたことを非常に悔いたと伝わっています。

エリーザベトの人物相関図

ミュージカル「エリザベート」の相関図 引用:梅田芸術劇場

エリーザベトの都市伝説「ルートヴィッヒ2世と仲が良かった?」

ルートヴィッヒ2世、夢想家で宮廷嫌いなところが気が合ったらしい

エリーザベトはバイエルン王のルートヴィッヒ2世と仲が良かったといいます。二人は精神を病んでいて、浪費家で夢想家だという共通点があったため、非常に意気投合していたそうです。一説にはルートヴィッヒ2世はエリーザベトに恋をしていたといわれています。

ただしルートヴィッヒ2世は同性愛者だったので、純粋に憧れていただけなのではとも考えられています。エリーザベトは彼の前途を心配して妹のゾフィーを紹介し婚約までしていますが、ルートヴィッヒが興味を示さず破談となったのです。

ゾフィー王女、美しい方に感じるがルートヴィッヒ2世は興味を示さず破談となっている

このことでエリーザベトは激怒し、二人の仲は急速に悪化したそうです。このことがルートヴィッヒ2世の精神病の悪化と国費の浪費に拍車をかけたともいわれています。

エリーザベトの生涯年表

1837年 – 0歳「バイエルン王家の王女として生まれる」

父マクシミリオンも街に出てチター奏者に扮したりしていたという

バイエルン王家の傍系の父、バイエルン公マクシミリオンと、母バイエルン王女ルドヴィカの間の次女として生まれました。王族の家系とはいえ、皇位からは遠く公爵家ではあるものの比較的自由な幼少期を過ごしたといわれています。時には父と一緒に街に繰り出したり、狩りに出たりとお転婆で自由気ままな生活を送っていたそうです。

1853年 – 16歳「フランツ・ヨーゼフ1世が一目ぼれし結婚する」

姑のゾフィーはこの頃からエリーザベトに皇后が務まるのか不安を抱いていたという

1853年に姉のヘレーネのお見合いに来たフランツ・ヨーゼフ1世が、妹のエリーザベトを見初めて求婚し結婚が決まりました。彼女は結婚に非常な不安を抱いていたといいます。そしてお妃教育が始まったのですが、不真面目で勉強嫌いな彼女は何回もヒステリーを起こしていたといいます。

姑のゾフィー大公妃もエリーザベトの「幼さ」を気にして結婚を反対したそうですが、この時フランツ・ヨーゼフ1世は人生で初めて母の言うことを聞かなかったそうです。1854年に結婚し皇后となりました。

1858年 – 20歳「長男ルドルフが誕生する」

ルドルフ皇太子は祖母の元で厳しい教育を受けたという

宮廷が窮屈で仕方がないエリーザベトでしたが、待望の長男ルドルフが誕生します。この頃には姑のゾフィーとの仲は険悪になっており、息子も養育させてもらえず取り上げられてしまっています。エリーザベトへの教育は周りの雰囲気も悪くなってしまうほど厳しかったといわれています。

ゾフィー大公妃にとって「子供の養育を任せられない」と判断されてしまったのです。それからは子供と会うこともままならない毎日となりました。

病気療養のために大西洋のマディラ島に滞在する

絶海の孤島のマディラ島療養はエリーザベトにとっては安らぎとなったようだ

この頃エリーザベトは肺結核となり、空気が良い所で療養するためにマディラ島で2年過ごしてます。しかし公式には「肺結核」ですが、実は夫の浮気の噂と姑の確執が原因の「うつ病」ではないかといわれています。

この頃には、「とても美しいオーストリア皇后」と評判になり始め、「自分は美しくなければならない」という考え方が芽生えるようになってきたといいます。そして宮廷が苦手で子供を取り上げられたという心の隙間を、美容に熱を入れることで解消していくようになります。

1867年 – 29歳「オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する」

ハンガリー王妃戴冠式時のエリーザベト

1867年にオーストリアの一部だったハンガリーが自治権を持ち、「オーストリア皇帝兼ハンガリー国王」と軍事・外交・財政のみ共有し、その他はオーストリアとハンガリーが独自に政治を行うという連合国家となりました。

この時にエリーザベトは影の推進者の役割を果たしたといわれています。エリーザベトは手紙を夫に送って連立国家の成立に貢献したそうです。

1872年 – 34歳「姑ゾフィーが薨去する」

晩年のゾフィー大公妃(写真の中央)

長らくエリーザベトと確執があったゾフィー大公妃は、皇帝の弟の死により気落ちし生きる活力が無くなっていったといいます。そんな中1872年にゾフィー大公妃は肺炎にかかり薨去しました。最期寝込んでいる姑をエリーザベトは必死に看病し、最期を看取ったといいます。ゾフィー大公妃は最期になってエリーザベトと和解したといわれました。

1889年 – 51歳「息子のルドルフ皇太子の情死する」

エリーザベトは息子の死後生涯喪服を着続けたという

1889年に息子のルドルフ皇太子が愛人と情死しています。元々ルドルフ皇太子は母親と同じように自由主義的な思想を持ち、反貴族主義や反聖職者主義に傾倒し、薬物も摂取して精神的に不安定だったといいます。

そして父帝に叱咤されていたルドルフ皇太子は、数日後愛人のマリー・ヴェッツェラと拳銃で情死しています。当初は「心臓発作」と発表されましたが、程なくして「情死」とヨーロッパ中に知れ渡ることとなりました。エリーザベトの悲しみは深く、疎遠にしていたことを非常に悔い、終生喪服を来て過ごしたそうです。

1898年 – 60歳「スイスのジュネーヴで暗殺される」

暗殺された時の様子を描いた画

息子の死後エリーザベトは、精神的な病と坐骨神経痛の治療という名目でヨーロッパ旅行を続けていたといいます。そして1898年に温泉保養のためにスイスのレマン湖に滞在していた時に、船に乗ろうと桟橋を渡ったときに、イタリア無政府主義者のルイジ・ルケーニに鋭いヤスリで心臓を一突きされ崩御しました。

傷は小さく血が噴出さなかったために、倒れたものの起き上がり自分が刺されたことに気づかずに80メートルも歩いたといわれています。そして船上で倒れ、微笑みながら「何があったの?」と言って意識を失い、一時間後に息を引き取ったといわれています。享年60歳でした。

逮捕されたルイジ・ルケーニ

当時民主主義運動が活発化し、無政府主義者やテロリストが王族の命を狙っていた時世でした。犯人のルイジ・ルケーニも「王族なら誰でも良かった」と後に供述したといわれています。

エリーザベトの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

エリザベート 愛と死の輪舞 (角川文庫)

公爵家令嬢エリーザベトが、黄泉の王トートに魅入られてしまう舞台の原作です。本場のウィーンと日本の宝塚で大ヒットし、絶大な人気を誇っています。数奇な人生を送ったエリーザベトがトートという黄泉の王に魅入られたというロマンチック且つ悲しみがどことなく漂う物語に、読んでいて思わず引き込まれてしまう名作です。

皇妃エリザベート:ハプスブルクの美神 (知の再発見双書)

ハプスブルク家史上最も美しいといわれた皇后の生涯を、わかりやすく当時の時世の図解も含めつつ描かれています。沢山のイラストや写真はどれも美しく、近世の皇后のロマンに浸れます。女性向けのようにも感じますが、歴史も丹念に語っているので男性も楽しめるのではないかと思う1冊です。

おすすめの映画

エリザベート~愛と哀しみの皇妃

イタリア・ドイツ・オーストリアの3国合作の豪華な映画です。総製作費11億円というのも驚きですが、エキストラも2000人という超豪華な1作です。エリーザベトの前半の人生を描いています。最後はハンガリー王妃になったところで終わっており、まさにエリーザベトが人生で一番輝いていた頃までの人生を描いていて楽しめる作品です。

Elizabeth Trilogy Set HD Remastered Edition

古い「エリーザベト」の映画を高画質にリリースした3部作です。美しい皇后を主演のロミーシュナイダーが美しく演じています。特にミュージカルのファンにおすすめです。オーストリアの博物館で流れているエリーザベトファンならおなじみの作品です。

おすすめの舞台

東宝 ミュージカル エリザベート DVD Black ver 井上芳雄 花總まり

エリーザベト役が花總まり、黄泉の王トート役が井上芳雄のミュージカルです。トートを井上芳雄が演じることで話題になりました。以前皇太子ルドルフ役をやった井上芳雄が、花形のトートをやることになったのです。ミュージカル好きには絶対外せない作品です。

エリザベート ―愛と死の輪舞―

上演回数799回、観客動員数192万3千人という宝塚歌劇団を代表する人気ミュージカル「エリーザベト」を、宝塚100周年に公演した作品です。この時は8度目の公演であり、花組トップスター「明日海りお」の大劇場お披露目公演だった作品でした。宝塚ファンはもちろんのこと、興味があまりなかった人も見てファンになったという方が大勢いる作品です。

関連外部リンク

エリーザベトについてのまとめ

いかがでしたか?今回はエリーザベトについて解説しました。

筆者にとってエリーザベトは、幼少期からミュージカルを何回も見に行ったやはり特別な存在です。最初にミュージカルに触れ、それからどういった人か歴史を知ったのですが、大人になってみると皇后としての資質は正直あまり評価を得てはいないのに、絶大な人気を誇っていることに驚いたものです。

旅行ばかり行っていた「困った皇后」だったエリーザベトが、今でも領民だった国民に愛されていることは、他の皇后にない資質のようにも感じています。この記事でそんなエリーザベトを少しでも知っていただけたら嬉しく感じます。最後まで読んでいただきありがとうございました。

1 2

コメントを残す