麻原彰晃とはどんな人物?生涯年表まとめ【事件の理由や生い立ち、妻や娘についても紹介】

麻原彰晃の生涯年表

1955年 – 0歳「麻原彰晃、誕生」

八代市の名勝・松浜軒 八代亜紀もこの市の出身だ

子ども時代の麻原彰晃

1955年の3月に誕生した麻原彰晃。本名は松本智津夫といい、両親は熊本県八代市で松本畳店を営んでいました。

9人の子どもを抱えていた松本家は貧しく、両親は働き詰めだったため、麻原彰晃は兄や姉を親のようにして成長しました。

テレビアニメが大好きないたずらっ子でしたが、いたずらをしたときには兄や姉に厳しく叱られていたそうです。

熊本盲学校への転入

現在の熊本盲学校
県内唯一の視覚障害者のための特別学校

1961年、一度入学した八代市立の小学校から熊本盲学校へ転入します。まだ片目には視力が残っていたため、生徒たちの中ではボス的な存在となりました。生徒たちを暴力で支配するだけでなく、窃盗を命じることもあり、退学させろという声まで出たそうです。

将来を予想できる姿がすでに盲学校で現れていたわけですが、この後鍼灸免許を取得、さらには政治家になる夢を持つようになります。

1977年 – 22歳「代々木ゼミナールに入学」

予備校「代々木ゼミナール」
本拠地は渋谷区代々木

政治家になる夢を持った麻原彰晃は、東京大学への入学を目指し、代々木ゼミナールという予備校に入学します。結局、3度の受験は失敗に終わりますが、このときの思い出を麻原彰晃は挫折とは捉えていなかったようで、後に教団内で楽しそうに予備校時代の話をしていたそうです。

石井知子との結婚

1978年、麻原彰晃は代々木ゼミナールで知り合った石井知子と結婚します。千葉県船橋市に新居を構え、松本鍼灸院も開業、人生の新しいスタートを切ったのです。

しかし、次第に麻原彰晃は鍼灸師としての限界を感じるようになります。鍼灸だけでは病気の人を完治させることができない、自分は無駄なことをしているのではないかと考えるようになったのです。

そこで彼は独自に研究を始めます。研究は四柱推命や気学、台湾鍼灸や漢方などさまざまな分野に及びました。きっと運命と東洋医学の両面から人間を支えようとしたのでしょう。これが後に麻原彰晃が宗教の世界に進むきっかけとなりました。

人生が迷走を始める

麻原彰晃は1980年に阿含宗に入信。かなりのめり込んだようで、家に戻らなくなりました。また、1981年には船橋市内に健康薬品店を開店しますが、無許可の医薬品を販売したことで逮捕されてしまいます。

これらのことは妻である知子の精神に大きな負担をかけてしまい、いさかいの原因になりました。知子は夫婦げんかの末、家出をすることもあったと言います。この後、彼女が体験する壮絶な世界を思うと、心が暗くなる思いです。

阿含宗とは

1978年に作られた仏教系宗教団体で、「阿含経」を経典としています。「阿含経」は釈迦が直接説いた、唯一の経典だと言われています。これには成仏するための方法が説かれているそうです。

1983年 – 28歳「オウム真理教の始まり」

最初はヨガ道場だったのに

鳳凰慶林館を開く

1983年、麻原彰晃は阿含宗の教義に疑問を感じて脱会。自ら超能力開発を指導する学習塾「鳳凰慶林館」を開きます。これがオウム真理教の始まりでした。「鳳凰慶林館」がヨガ道場「オウムの会」となり、宗教法人「オウム神仙の会」、そして「オウム真理教」へと発展していくのです。

麻原彰晃は1983年当初から、ヨガや東洋医学の要素を取り入れており、最初は教祖様といったふうではなく、中性的なヨガの先生だったと証言されています。

オウム真理教の誕生

1987年には「オウム神仙の会」が仏教をメインにした「オウム真理教」となります。この頃から、麻原彰晃は暴力や犯罪を肯定する発言をするようになり、翌年には在家信者が死亡する事件が発生します。麻原彰晃の指示により、1989年には男性信者殺害事件、坂本堤弁護士一家殺害事件を起こしています。

1990年の衆議院選挙に出馬するも、オウムのメンバーはことごとく落選します。そして麻原はこの落選を自分に対する陰謀だと捉えたのです。疑心暗鬼にかられた麻原はさらに迷走を続け、ついには地下鉄サリン事件を起こしてしまうのです。

1995年 – 40歳「地下鉄サリン事件発生」

地下鉄・霞が関駅は現場の1つとなった

逮捕の瞬間

教団の施設・サティアン(真理の意)の1つ 1996年に撮影

地下鉄サリン事件の発生から2カ月後、山梨県西八代郡上九一色村にあるオウム真理教の施設内で麻原彰晃は逮捕されました。施設内の1階から2階への階段部分の天井には隠し部屋が作ってあり、そこに現金960万円を所持した麻原彰晃が隠れていたそうです。

麻原彰晃は17事件の責任を問われることとなりました。その罪は殺人26人、逮捕監禁致死1人というすさまじいものでした。

日本中が注目した裁判

第一審の初公判は日本中が注目し、傍聴を希望する人々は1万2千人を超えていました。麻原彰晃の弁護にあたった国選弁護人の安田好弘がバッシングを受けるなど、最初から波乱含みの展開が予想されるものでした。

麻原彰晃は一貫して弟子たちが暴走しただけであって、自分に責任はないとしていました。自らの潔白を示すためには、空中浮揚をやって見せるのが一番だとの指摘がありましたが、実行はできませんでした。

2004年 – 49歳「死刑判決」

死刑判決が出てもそれで終わりではない

謎の残る精神状態

裁判が始まってからしばらくの間、麻原彰晃はまともな受け答えをしていましたが、1996年の10月からたびたび居眠りをする、突然英語で喋りだすなどの奇妙な行動を取るようになりました。

そして2002年の公判を最後に応答しなくなり、弁護士とも意思疎通ができないまま、2004年には死刑判決が出ました。本当に精神疾患などで意思の疎通ができない場合は、裁判を続ける能力(これを訴訟能力といいます)がないことになりますから、裁判を止めなくてはなりません。

2004年に弁護団は独自に精神鑑定を行い、麻原彰晃には裁判を続けるだけの能力がないと結論を出しました。しかし最高裁の依頼を受けて行った精神鑑定では病気のフリをしていると言う結論が出ました。

麻原彰晃に近い人々の間でも意見が割れたため、彼の精神状態は今でも謎のままです。それでも死刑判決が出てしまったことは、果たして正しかったのでしょうか。

死刑執行

2018年7月、東京・大阪・広島・福岡の拘置所にそれぞれ収監されていた6人のオウム真理教幹部たちと同じ日に死刑が執行されました。

刑の執行前の刑務官とのやり取りで、遺体の引取先を尋ねられた麻原彰晃は四女と答えたため、執行の翌日に四女と弁護士の滝本太郎が遺体と対面しました。その印象は教祖の麻原彰晃ではなく、一個人の松本智津夫であったということです。

しかし麻原彰晃の死で、何もかもリセットされたということはなく、オウム真理教の大きな影響力は今もなお残っているはずです。

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