リンカーンの生涯年表
1809年 – 0歳「農民の家庭に生まれ、少年時代を過ごす」
ケンタッキー州の丸太小屋で誕生
エイブラハム・リンカーンは、ケンタッキー州ラルー郡のシンキング・スプリング農場に建てられた丸太小屋で産まれます。父であるトーマスは、複数の農場と家畜、馬を所有しており、比較的裕福な家庭を築いていました。
しかし、リンカーンが7歳になった頃に、トーマスが所有していた土地の権利証が偽物であったことが発覚。その結果、訴訟によってトーマスは全ての土地を失ってしまいました。
そして、9歳の時に母であるナンシーが34歳の若さで亡くなります。その翌年、トーマスは3人の子供を持つ未亡人と再婚しました。そのような家庭で、リンカーンはあらゆる家事や雑用をこなすようになり、同時に勉強にも励みながら忙しい日々を過ごしていたのです。
各地を転々とした後、自立
土地を失ったリンカーン一家は、貧困のために奴隷制度のない自由州であるインディアナ州スペンサー郡に引っ越します。自由州を選んだ理由は、リンカーンの父であるトーマスが、奴隷制に反対するバプテスト教会の信徒だったことにありました。
この頃に、リンカーンは父の農業を手伝いながら、荷運びや雑貨屋など様々な仕事を経験します。その後、リンカーンは21歳になるまで家族のために働き続けました。また、その間に再度転居をしており、リンカーン一家はイリノイ州メイコン郡にも居住しています。
しかし、次の転居が決まる頃に、リンカーンは自立する考えを明らかにしました。そして、22歳の頃にイリノイ州サンガモン郡ニューセイラムに1人で移住したのです。
1832年 – 23歳「政治に関わり始める」
イリノイ州議会議員選挙に出馬
1832年、経済的に自立していく過程において、リンカーンはニューセイラムの討論集会に参加しました。そして、集会で出会った町の指導者や知識人に認められ、彼らに政界入りを勧められます。
その後、リンカーンはイリノイ州議会議員候補者になることを宣言しました。この決断によって、リンカーンは政治活動を開始したのです。そして、リンカーンは生まれ持った雄弁さで魅力的な演説を行い、人々を惹き付けました。
1832年の選挙では、多数のニューセイラム票を獲得しましたが、結果的には落選してしまいます。しかし、十分な準備と戦略を用意して挑んだ1834年の選挙で、見事に当選したのです。この時、リンカーンは民主党に対して反対の立場をとっていたホイッグ党に所属していました。
法廷弁護士として認められる
選挙活動をしていたリンカーンは、同時期に独学で法律を勉強していました。その結果、1836年にリンカーンは法廷弁護士の資格を取得し、イリノイ州スプリングフィールドにある法律事務所で実務を開始しました。
この法律事務所の経営者は、1834年のイリノイ州議会議員選挙において、リンカーンと共に当選を勝ち取ったジョン・トッド・スチュアートでした。リンカーンは、自身のライバルであり戦友でもあるスチュアートの下で働き始めたのです。
その後、リンカーンは選挙活動において強みとなった優秀な弁舌を活用し、有能な弁護士として活躍していきます。そして、1841年にはスティーブン・トリッグ・ローガンという人物と共に、自身の法律事務所を立ち上げました。
1842年 – 33歳「結婚し、家庭を持つ」
奴隷所有家出身のメアリー・トッドと結婚
1842年、リンカーンはスチュアートのいとこであるメアリー・トッドと結婚します。生涯を共にすることになるメアリーは、ケンタッキー州レキシントンの奴隷所有家の出身であり、裕福な家庭で高い教育を受けていました。
そして、名門であるトッド家の1人として社交界に出てきた後、リンカーンと出会って恋愛結婚したのです。しかし、社交的で派手好きなメアリーは一般的な経済観念を持ち合わせておらず、嫉妬深い性格やヒステリー症状も重なったことで、リンカーンの家庭は決して幸せとは言えませんでした。
しかしその中でも、メアリーは家事や収入のやりくりなどをできる限り行い、リンカーンの弁護士業を支えたのです。
4人の子供が生まれるが…
1843年、リンカーンとメアリーの間に長男のロバート・トッド・リンカーンが誕生しました。父親となったリンカーンは、かなりの子供好きとして知られており、家族への愛情が深く、しつけに厳しい親では無かったようです。
1846年には、次男のエドワード・ベイカー・リンカーンが生まれました。しかし、エドワードは4歳の時に結核が原因で亡くなってしまいます。そして、1850年に生まれた三男のウィリアム・ウォレス・リンカーンは1862年に死去。その後、1853年に生まれた四男のタッド・リンカーンは、18歳の時に心不全で亡くなります。
最終的に、長男のロバートは長生きしましたが、他の3人の息子たちは成人する前に亡くなってしまいました。そして、息子たちを相次いで亡くしたリンカーンとメアリーは、ストレスや鬱状態に苦しむことになったのです。
1846年 – 37歳「アメリカ合衆国下院議員に選出される」
アメリカ・メキシコ戦争への反対演説
1846年、リンカーンはホイッグ党員としてアメリカ合衆国下院議員に選出されます。この任期の間、リンカーンはスプリングフィールドにある自宅ではなく、ワシントンD.C.で過ごす時間が多かったようです。
そして、二年間の任期の中で、リンカーンはワシントンD.C.における奴隷制度の廃止を主張しながら、当時の民主党政権が展開していたアメリカ・メキシコ戦争への反対運動を行いました。
アメリカ・メキシコ戦争とは、1845年に行われたアメリカ合衆国によるテキサス併合に対し、メキシコが宣戦布告したことによって始まった戦争です。最終的に、この戦争はアメリカ合衆国が勝利し、メキシコの領土を一部獲得することになりました。
弁護士として活躍し、正直者エイブと呼ばれる
下院議員としての任期を終えた後、リンカーンはスプリングフィールドに戻って弁護士活動を再開します。この頃、リンカーンは一時的に政界から離れることにはなりましたが、ホイッグ党の一員で在り続けました。
リンカーンは、顧客の貧富に関係なく精力的に弁護士としての活動に勤しみ、その誠実さと公平さから「オネスト・エイブ(正直者エイブ)」と呼ばれるようになります。このニックネームは、「偉大な解放者」や「奴隷解放の父」などの愛称と並んで、現在においても親しみ続けられているのです。
また、非常に活動的で寝る間も惜しんで働く姿から、リンカーンは「働き者エイブ」と呼ばれることもありました。しかし、実際には精神状態が不安定であった妻のいる自宅に帰りたくないという理由で、オフィスに長居することが多かったようです。