1854年 – 45歳「共和党が成立」
民主党政権がカンザス・ネブラスカ法を制定
1854年、民主党の上院議員スティーブン・ダグラスによって考案されたカンザス・ネブラスカ法が制定されました。カンザス・ネブラスカ法とは、アメリカ中西部において新しく開拓された州における奴隷制の可否を開拓民に委ねるという内容の法律です。
この法律は、奴隷制度をさらに拡大させるものであり、リンカーンを始めとした奴隷制反対派勢力から猛烈な非難を浴びました。そして、リンカーンは反対意見を主張する演説を行い、多くの注目を集めたのです。
その結果、リンカーンを中心とした反奴隷制や反民主党の連合勢力が集結し、北部諸州を基盤とする共和党が誕生しました。そして、この共和党がホイッグ党に代わって、民主党の対抗勢力へと成長していくのです。
リンカーン・ダグラス論争
1858年、リンカーンはカンザス・ネブラスカ法を考案したスティーブン・ダグラスへの対立候補として、上院議員選挙に立候補します。そして、その選挙活動中において、リンカーン・ダグラス論争が巻き起こりました。
リンカーン・ダグラス論争とは、リンカーンとダグラスの間で行われた討論会において繰り広げられた舌戦です。この討論会の内容は、主に奴隷制度に関わる議題が中心であり、両者は対照的な立場をとって争いました。
最終的に、上院議員選挙にはダグラスが再選することになります。しかし、両者の論争はアメリカ史において最も有名な討論となり、多くの聴衆が惹き付けられました。そして、この討論会で用いられた形式は現代の高校や大学でも使用されており、大統領選挙における討論もこの方式に近い形で行われているのです。
1860年 – 51歳「1860年アメリカ合衆国大統領選挙」
共和党初の大統領となる
1860年、アメリカ合衆国大統領選挙が行われました。そして、リンカーンは共和党の候補として指名され、民主党候補のダグラスを破って第16代アメリカ合衆国大統領になったのです。
この大統領選挙における選挙運動において、リンカーン自身は選挙演説を行いませんでした。その代わりに、共和党は北部諸州を中心に選挙ポスターや小冊子、新聞などを大量に制作することで宣伝を行ったのです。
南部州がアメリカ合衆国から離脱
奴隷制の拡大に反対する共和党のリンカーンが大統領に就任したことで、奴隷制度存続の危機を感じた南部諸州がアメリカ合衆国から離脱しました。その結果、分離派奴隷州によるアメリカ連合国が形成されたのです。
これに対し、リンカーンはアメリカ連合国の成立とアメリカ合衆国からの脱退を承認せず、違法であると宣言しました。この時、リンカーンは中立州への配慮を含めて、奴隷制を完全に廃止する意思はないことを明言しています。
しかし、アメリカ連合国新政府は民兵を募集し、アメリカ連合国陸軍を結成。そして、アメリカ合衆国における南北の対立はさらに深刻化していったのです。
1861年 – 52歳「南北戦争勃発」
最高司令官として北軍を指揮
1861年、南北に分断されたアメリカ合衆国において、南北戦争が勃発します。両者の対立は、黒人奴隷制度の存続を巡る争いが主要な原因でしたが、同時に保護貿易を望む北部と自由貿易を望む南部の衝突でもありました。
この内戦において、リンカーンはアメリカ合衆国大統領として北軍の最高司令官を担い、反乱の鎮圧に対応します。そして、このような前例のない政治的・軍事的な危機に対し、共和党は北部民主党や大衆などの北軍同調者と共に戦ったのです。
また、リンカーンはこの戦いが国際紛争に発展しないように細心の注意を払っていました。その理由は、南部では奴隷制による綿花栽培が発展しており、ヨーロッパとの自由貿易を軸とした経済体制が築かれていたため、イギリスやフランスが介入してくる恐れがあったことにあるのです。
トレント号事件
トレント号事件とは、南北戦争中に発生したイギリスとアメリカ合衆国の間における外交問題です。この事件は、南軍の外交官を2人乗せていたイギリス船を北軍の将軍が拘束したことによって発生しました。
前述した通り、リンカーンはイギリスとの開戦を望んでいませんでした。そのため、リンカーン政権は謝罪をすることはありませんでしたが、2人の使節は釈放しました。その結果、イギリスとの開戦を回避することに成功したのです。
1862年 – 53歳「奴隷制廃止を明確な戦争目的とした」
ホームステッド法の制定
ホームステッド法とは、自営農民を育成することを目的とした法律であり、リンカーンの署名によって発効されました。この法律は、21歳以上の国民に公有地を貸し出し、その土地において5年間の定住と耕作を行った者に対して、貸与した公有地を無償で与えるというものです。
その結果、リンカーン率いる北部政府は、西部に居住していた開拓農民の支持を集めることに成功しました。また、この法律は西部地域の発展を促すことになり、南北戦争後には国内において自立した経済圏を形成することが可能となったのです。
奴隷解放宣言
奴隷解放宣言は、1862年9月に予備宣言された後、1863年1月1日より実施されました。
この宣言によって南北戦争におけるアメリカ合衆国の戦争目的は、国内の分断阻止から黒人奴隷の解放へと転換していったのです。その後、即座に解放された一部の黒人奴隷たちは北軍に加勢することになり、北軍は南軍に対して有利となっていきました。
また、奴隷解放宣言によって戦争目的を明確にしたことで、ヨーロッパ諸国は北軍を支持するようになっていきます。その結果、アメリカ連合国が主権国家として承認される可能性は無くなり、北部はさらに勢いが付いたのです。