降嫁後の「家茂」と「篤姫」との関係
ひと悶着あった和宮の結婚も、1861年に婚儀を行いました。その後大奥では徳川家茂とは良好な関係を築き、篤姫とは「あまり仲が良いとはいえない」状況だったようです。この二人との関係を解説していきます。
徳川家茂との仲は良好だった
夫家茂と和宮の関係は良好だったといいます。和宮は「内親王」という身分のまま結婚しました。この身分差結婚のために、将軍家茂は高貴な妻を立てて側室も置かず、和宮を生涯の伴侶としたのです。
また、家茂の履物が縁側の石の上に落ちてしまった際、和宮は縁側から降りて自分の履物を下に置き、家茂の履物を石の上に置きなおし周囲を驚かせたという話も伝わっています。
しかし1866年、家茂は心労が祟り大阪城で体調を壊し、薨去してしまいます。関西に向かうときに、家茂は和宮に「凱旋の土産は何が良いか」と問い合わせて「西陣織」を所望したといいます。しかし大阪で家茂が薨去したために、形見として西陣織が届けられました。和宮は、
空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ
の和歌を添えて西陣織を増上寺に奉納し、袈裟に仕立て上げています。これは「空蝉の袈裟」として現在も伝わっています。
篤姫とは仲が良いとはいえなかった
篤姫とは「大奥」のしきたりなどで、衝突することがあったようです。例えば和宮が初めて篤姫に対面の際、篤姫の席が上座で和宮に会釈もせず、更に和宮の座には敷物も用意されていなかったという話があります。
今までこのような扱いを受けたことが無かった和宮は、孝明天皇に「天璋院が様々な無礼を働いた」と書状を送っています。この時は老中が篤姫に事情を聞き、注意をすることで解決しました。確かに先代の将軍の正室が、新しい正室よりも上座というのは道理のような気もします。しかし和宮の内親王という身分を考えると、考慮が必要となってくるのでしょう。
しかしこのような軋轢も、倒幕が活発になってくると次第に薄れていったようです。武家出身の篤姫と皇族である和宮ですが、「江戸と徳川家を守りたい」という意志が二人を繋げ、徳川存続に奔走しました。結果として明治時代になっても篤姫との交友があったと伝えられています。
死因は「脚気」という説が有力
和宮の死因は、「脚気の為の心不全」のために薨去した説が有力です。現在こそ脚気は「ビタミンB」の不足による症状とわかっていますが、当時は原因が不明で、白米が流行した江戸で多く発症した為に「江戸病」といわれていたそうです。
またもう一つの説に「コレラ説」があります。根拠は和宮が没した年に、コレラが大流行していたそうです。コレラは当時死亡率も高く、原因もわからなかったために非常に恐れられた病でした。発病3日目には突然死んでしまうために「3日コロリ」とも呼ばれていました。
和宮の葬儀は、内親王であり将軍正室であった女性とは思えない程ひっそりしたものであったらしく、天璋院篤姫すらも参列していないそうです。そのことから、伝染病による死だとすると説明がつくというのが理由です。
今となっては永遠にわかりませんが、晩年は明治天皇や叔父の橋本実麗の勧めで東京に住んでいました。そして東京に戻って3年後に脚気を患い、1877年に医師の勧めで箱根塔ノ沢温泉に療養し、2か月後に薨去しました。政府は当初葬儀を神式で行う予定だったといいますが、和宮の「家茂様の側に葬ってほしい」との遺言を尊重し、仏式で行われました。墓所は家茂と同じ東京の増上寺に葬られています。
遺骨調査による和宮の特徴
和宮の遺骨は1950年に改葬されており、その時に学術調査を受けています。陵墓や陵墓発掘が宮内庁により禁止されている日本において、和宮は埋葬後調査された数少ない皇族となりました。
調査の結果、棺から烏帽子に直垂姿の若い男性の写真乾板が副葬品として見つかっています。この写真は保存方法が悪く、翌日に乾板はただのガラス板になっていたそうです。写真の男性は、徳川家茂が有力ですが、元婚約者の有栖川宮熾仁親王ではないかという説もあります。
また不思議なことに、和宮の左手首から先の骨が発掘の時にいくら探しても見つからなかったらしく、「左手は生前からなかったのではないか?」と噂されるようになりました。増上寺の和宮の銅像も、肖像画も左手が隠れている為になお噂に拍車がかかったようです。
しかし、和宮は生前3年ほど脚気を患っていました。そのため左手の骨が脆くなっていたという説や、もしくは発掘の時かなり土砂と水が入り込んでいたために、泥に埋もれてしまったという説も囁かれています。