和宮にまつわる逸話
逸話1「江戸に降嫁した和宮は替え玉だった!?」
和宮が替え玉だったという噂があります。「和宮様御留」という小説を書いた有吉佐和子が「ある婦人から聞いた話」として和宮の下女が替え玉として下った話が話題になりました。
このような噂は昔からあったらしく、「幼少から足が不自由だった和宮が将軍の履物を取り直す事ができない」「筆跡や歌の作風が変わった」と噂されていました。そして極めつけが家茂の墓から出てきた「和宮と思われる髪の毛」が、和宮の遺骨とDNA鑑定で一致しなかったといいます。
しかし家茂のお棺に入っていた髪も側室の髪だった可能性もあるとしたり、どれも確証がないために全てが都市伝説となっています。今となっては正史と事実の違いがあったのか全てが確証を得られるものはなく、もどかしいですがそこも歴史のロマンなのかもしれません。
逸話2「有名な『和宮の写真』は和宮ではなかった!?」
長らく和宮の唯一の写真といわれていた写真は、実は和宮ではなく別人であるという説が有力視されています。この写真は、和宮を知る昭憲皇太后の女官、・高倉寿子に確認したところ、確かに和宮であると確認したものだそうです。そして徳川家でも同じ写真を保管し、「静寛院宮御写真」と書かれているそうです。このことから徳川宗家も、この写真は和宮だと思っていたのです。
この写真は今でも議論されていますが、女性の服装が正装ではなく小袿姿という公家の女性の普段着であり、冬に輿入れなのに薄着であったりと疑問点が多いことが指摘されています。ただし言えることは、実際会ったことのある高倉寿子や徳川家の人たちが「和宮」と思ったというので、写真と似た人物であった可能性が高いといわれています。
和宮の生涯年表
1846年 – 0歳「仁孝天皇の第8皇女として誕生する」
1846年に、仁孝天皇の第8皇女として誕生しました。母は側室の橋本経子です。7日後に異父兄の孝明天皇より「和宮」の名を賜っています。仁孝天皇は和宮誕生の4か月前に崩御しており、勅命により御所ではなく、母の実家橋本邸で養育されました。橋本家は大納言や権大納言を務める上級の公家だったために、和宮は皇女の中でも高貴な存在だったといえます。
丙午生まれだった為に「歳替えの儀」が行われる
和宮は丙午の生まれだったために、1847年に「歳替えの儀」が行われて歳が改められています。八百屋お七が丙午生まれだったために、「丙午年生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信があったからでした。このことで当時は丙午年の女性の結婚に対して避ける傾向があるために、生年を改められたのです。
僅か5歳で、有栖川宮熾仁親王と婚約しています。当時は身分が釣り合った相手が内親王には見つからないケースも多く、「幸福な婚約」といわれていました。しかも当時は高貴な身分の人は、結婚するまで相手の顔も知らないことがほとんどでしたが、有栖川宮熾仁親王は、9歳年上で和宮の和歌の先生をしていたといいます。
幼少の頃から歌を習っていた婚約者がいた和宮ですが、時は幕末であり、和宮にとって想像もできなかった方向に人生は進んでいくこととなりました。
1861年 – 15歳「内親王宣下を受けた後に嫁ぐ」
政情不安により、幕府は国内外での力を示すために、「公武合体」の象徴として和宮と家茂の婚姻を提案。孝明天皇は最初難色を示したものの、度重なる幕府の要請に折れ和宮の婚姻が決まりました。嫁ぐために内親王宣下を受け、「親子」という名を賜っています。
和宮と孝明天皇は、幕府に約束事を取り付けた上で「10年以内に攘夷を遂行する」という条件で婚姻を承認しています。幕府が早くの婚礼を望んでいたために、決定の2か月後には京都の桂宮邸から江戸に向けて下向を始めました。花嫁行列は50㎞にも及ぶ大行列だったといいます。
1862年 – 16歳「江戸城にて徳川家茂と婚儀を行う」
1862年2月に江戸につき、江戸城で将軍徳川家茂との婚儀を行いました。政略結婚ではあったものの、家茂は和宮を大事に接し、何かにつけお土産を持ってきたり二人の仲は良好だったといいます。
しかし御所育ちだった和宮は、風習も違い女性が集う大奥の人間関係などで苦労もしたようです。しかし家茂との仲が良好だったこともあり、結婚生活は4年でしたが比較的穏やかな日々を過ごしていたといいます。しかし1865年に、一緒に江戸に下向していた母の橋本経子が死去します。この後、夫の家茂も薨去し、兄の孝明天皇も崩御したために和宮は1年の間に母・夫・兄を失うこととなりました。