和宮の功績
功績1「江戸の無血開城に多大な貢献をしたこと」
和宮の最大の功績は、江戸の無血開城に貢献したことです。無血開城とは江戸城の新政府への引き渡しの事を指します。江戸の無血開城で、西郷隆盛と勝海舟が会談したことは有名ですが、新政府に大きな影響を及ぼしたのは和宮です。和宮は天璋院と相談して、征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王や東海道鎮撫総督・橋本実梁に嘆願書を送っています。
朝廷の返信は「願いの儀については朝議を尽くす」とのみ記されていたといいますが、使者として来た叔父橋本実麗が持ってきた正親町三条実愛の書状の写しに「謝罪の道筋が立てば、徳川の存続は可能」と記されていました。この書状があったからこそ、幕府も大政奉還に向けて行動を移すことが決まったのです。
嘆願書には「私一命は惜しみ申さず候へども、朝敵とともに身命を捨て候事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致し居り候」と記されており、朝敵と共に命を捨てるのは恐れ多いことですが、徳川家と命を共にする覚悟ですと書いてありました。この嘆願書は朝廷でも心を動かされたといい、江戸への総攻撃の中止の大きな一因となり、「江戸と徳川家」を救うこととなりました
功績2「公武合体の象徴として使命を果たしたこと」
もう一つの功績は、徳川家茂に嫁いだことでしょう。動乱の幕末期に、和宮の婚姻はどうしても政治的に必要だったのです。当時関東は外国人が多く出入りし、長年鎖国していた日本人にとって和宮でなくても不安になってまう情勢でした。
結婚の際は、「降嫁は幕府が和宮を人質にするのが目的で、久我建通らは幕府から賄賂を受け、天皇を騙して幕府の計画を手助けしている」との噂が立ったといいます。この噂は程なく天皇の耳に入り、岩倉具視と千種有文に噂の真意を確かめるように勅をしています。そんな噂が立つほど、当時の朝廷と幕府との仲は不安定になっていました。しかし婚姻により幕府の体面も保たれたのでした。
和宮の残した和歌
惜しましな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
長らく嫁ぐことを決意したときに謳った歌として伝えられていました。しかし最近の研究では、家茂が上洛中に詠んだ歌と推定されているそうです。「君と国民のためならこの身を惜しくありません、私の身は武蔵野の露として消えてしまったとしても」と夫を思って詠んだ歌といわれています。
落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ
降嫁する際の旅の途中に詠んだ歌といいます。自分の身と紅葉を重ねて詠んで、自分も紅葉のように落ちていく身であると重ね合わせています。和宮の不安が伝わってくる歌です。
袖に置く 涙のつゆに うつしませ 逢ふがまほしと 恋ふる御影を
父仁孝天皇の御陵を参ったときに詠んだ歌といわれています。訳は「父上のことを思い出すたびに、私の袖に涙が落ちます。その涙に映してください、お逢いしたい恋しい父上のお姿を」です。父帝は和宮が生まれる少し前に崩御していますが、念願だった父帝の御陵参りを明治の御代に実現ができたといいます。