世界遺産マチュピチュとは?見どころや歴史、謎、行き方を詳しく紹介

「そもそも世界遺産マチュピチュってどういうところ?」
「マチュピチュの歴史や謎を知りたい!?」

「天空都市」として観光客から人気を集めているマチュピチュについて、あなたはこのような疑問を抱いているのではないでしょうか?マチュピチュとはペルーにある世界遺産で、15世紀のインカ帝国皇帝パチャクティによって建設されました。

世界遺産マチュピチュ

今回はそんなマチュピチュの見どころや行き方、歴史について一通りまとめました。マチュピチュにまつわる謎や遺跡の現状、観光の際の注意点についても解説しますのでぜひ参考にしてください。知識を身につけていくと、遺跡見学がより一層楽しめますよ。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

マチュピチュとは?

南米ペルーの世界遺産

緑の部分がペルー。熱帯だが標高によって気温が異なる

マチュピチュとは、南米ペルーのアンデス山脈にある世界遺産です。標高2430mに位置する山上の絶壁に建てられており、山の下から存在を確認できないため「天空都市」「失われた都市」とも呼ばれています。

遺跡の面積は約13平方kmで、東京の渋谷区よりもわずかに狭いくらいです。建物は200戸で熱帯山岳樹林帯にあるため、さまざまな種類の植物が生えています。また、10月から翌年4月までは雨季となっており、雨が降りやすいことも特徴です。

どことなく神秘的な雰囲気の漂うマチュピチュは、世界中から旅行者が訪れる人気の観光地となっています。

15世紀のインカ帝国の遺跡

マチュピチュは15世紀に存在したインカ帝国の石造遺跡です。

最大で750人以上が暮らしていたと言われている都市ですがインカ帝国滅亡以来、人が住んでいた痕跡は見つかっていません。現在ではリャマやチンチラなどの野生動物がゆうゆうと歩いている姿がみられます。

また、インカ帝国は文字を持たない文明だったため数々の謎が残っており、マチュピチュは2007年に世界七不思議の一つに数えられました。

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マチュピチュへの行き方

マチュピチュの最寄りの都市クスコ。標高3400mの山中にある

日本からマチュピチュへ行くには、27時間ほど飛行機に乗ってペルーのクスコへ向かいます。

ただし、日本から直行便が出ていないため、アメリカ〜ペルーの首都リマと計2回飛行機を乗り継ぐ必要があります。クスコからは、遺跡の近くにあるマチュピチュ村まで鉄道やバスが運行。

マチュピチュ村からは、遺跡入り口まで向かうシャトルバスが30分おきに駅から出ています。駅ではマチュピチュ遺跡の入場チケットも販売されているので、忘れず購入しましょう。

シャトルバスに乗り、30分ほど揺られるとマチュピチュに到着します。

マチュピチュの歴史

1450年ごろ – 「マチュピチュの建設」

インカの皇帝パチャクティを描いた絵画(17世紀)

マチュピチュは1450年ごろ、インカ帝国の9代目皇帝パチャクティによって建設されました。

インカ帝国のアンデス文明は文字を使っていなかったため、マチュピチュ建設の理由は定かではありません。これについては研究者の間で議論がなされており諸説ありますが、現在では宗教目的の都市で王や貴族の避暑地だったという説が有力です。

インカ帝国は太陽を崇拝していました。マチュピチュ遺跡は両側が切り立った崖の上に建てられており、太陽観測に適した土地です。それに加え、遺跡内には天体観測用の施設や神殿が点在しています。

このことから、マチュピチュは宗教的な側面が強い都市であったと言われています。

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1533年 – 「インカ帝国の滅亡」

マチュピチュに人が住んでいたのは80年ほどだった

マチュピチュが人々に忘れ去られたきっかけは、インカ帝国の滅亡です。

1533年、インカ帝国はスペイン人によって滅亡しました。

インカ帝国がスペインに滅ぼされるとマチュピチュの人口は1536年ごろから減っていき、1540年には完全に人の存在しない廃都と化したようです。以降、山奥にあったマチュピチュはスペイン人に見つかることなく、発見されるまで400年間人々から忘れ去られます。

1911年 – 「探検家ハイラムにより発見」

探検家ハイラム・ビンガム3世

マチュピチュが再び人の目に触れたのは、1911年のことでした。

インカ帝国の遺跡「ビルガバンバ」を探していたアメリカの探検家、ハイラムがマチュピチュを発見します。

ハイラムが発見したマチュピチュについての論文や書籍を発表したことにより、マチュピチュの存在は世界へ知れ渡りました。1983年には

  • インカ帝国時代の遺跡の中でも保存状態がよかったこと
  • 周辺の自然に絶滅危惧種に指定される重要な動物や植物がいたこと
  • 景観が優れていたこと

が理由となり世界遺産として登録されました。現在では1日に2000人の旅行客が訪れる観光地となっています。

マチュピチュにまつわる謎

マチュピチュを建設したインカ帝国は、文字を持たない文化でした。そのため、マチュピチュに関する正確な資料が残っておらず、いまだに多くの謎があります。

遺跡内に流れる水はどこからきているのか?

マチュピチュの遺跡内を流れる水路。500年経った今も流れている

急峻な土地に建つマチュピチュは、遺跡のそこかしこに水路があり今もなお水が流れています。この水は一体どこからきているのかと言うと、山の湧水からです。

もともとマチュピチュは雨の多い土地。遺跡から少し離れた森の中には山から染み出た湧水があります。インカの人々はこの水が斜面にそって遺跡へと流れ落ちるように、石に溝を刻んで地下水路を作ったり、木をくり抜いて水道管を作ったりしました。

これにより畑や居住地など、遺跡の広範囲に水を供給でき、その水量はおよそ300〜1000人ほどが在住できるほどだと推測されています。

インカ帝国の治水技術の高さがわかりますね。

500年も整備なしに崩れなかった理由は?

高い建築技術を持っていたインカ帝国

マチュピチュのあるペルーは日本のように地震が起きる国。整備なしで500年も遺跡が保たれたのはなぜでしょうか。この謎はすでに解き明かされており、答えは建築様式にあります。

マチュピチュの建物は石を隙間なく積んで建てられています。計算され尽くした石は地震が起こると揺れに合わせて石が互いに衝突。収まる頃には元の位置に戻っているというわけです。

このような建築方法で建てられているため、500年の間崩落せず状態の良いまま現代まで遺跡が残っています。

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