ムッソリーニとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

実は教員をしていた

教員をしたり放浪生活をしたりしていた

ムッソリーニは政治活動も行いつつ、教職についていました。当初は社会党の町長が選出されているグァルティエリという田舎町で教鞭を振るっていました。しかしすぐに職を辞し、スイスに移住しています。この時に、ドイツ語やフランス語を習得しました。

そして語学力を活かして色々な文献を読み漁り、スイスでもイタリア語圏の労働運動に参加するようになっていきます。しかし政治活動によりスイス政府からマークされる存在となり、国外退去させられてしまいます。

ジェノヴァの町、この近郊の学校で教師をしていた

イタリアに戻った後は、放浪生活で得た語学を活かしてフランス語の教員資格も取得しています。そしてジェノヴァ近郊のオネーリアという町で再び教職をし、フランス語と歴史・国語・地理を担当していたそうです。

スポーツも勉強も万能だったムッソリーニ

活発で目立ち成績も優秀な子供だったという

子供の頃のムッソリーニは喧嘩っ早い性格で、喧嘩も強いので村のリーダー的な存在だったといいます。しかし性格は寡黙で、群れることを嫌い一人でいることが多かったそうです。成績も非常に優秀で、寄宿学校を優秀な成績で卒業し、師範学校は首席で卒業しています。非常に読書家で、哲学・政治学・歴史学の本を中心に学校の鐘楼に登って読んでいたそうです。

スポーツも得意で朝起きたら体操して乗馬するのが日課だったといいます。性格は粗野で行動的だった反面、繊細な神経で人を信用せず、心を許す友人を作らなかったといいます。非常な読書家であり、近代ドイツ文学に傾倒していたそうです。また、芸術に対しても造詣が深く、多くの美術品を愛好していたと伝えられています。

死因は銃殺による処刑

吊るされるムッソリーニ達の遺体(左から二番目がムッソリーニ、三番目がぺタッチ)

ムッソリーニは共産主義を掲げるパルチザンによって銃殺されました。第二次世界大戦にドイツ・日本と同盟を組み参戦しますが、敗戦が濃厚になると失脚し、イタリア国内もパルチザンによるイタリア解放運動が活発になっていました。

1945年にスイスに逃亡しようとしますが、パルチザンに捕えられ正式な裁判を経ずに愛人のクララ・ぺタッチと共に銃殺されました。享年61歳でした。処刑後はミラノに遺体は搬送され、ミラノ市民に遺体を晒された後に、愛人と共に遺体は逆さづりにさりました。

ムッソリーニの死因と最後の様子を解説!処刑された理由や経緯も紹介

ムッソリーニの孫も政治家だった

ムッソリーニの孫で政治家のアレッサンドラ・ムッソリーニ

ムッソリーニの孫にあたるアレッサンドラ・ムッソリーニはネオ・ファシストを掲げる政治家でした。イタリア社会運動(社会ファシスト党の後任政党)から下院議員となり、「左翼」的な政治家として知られました。現在は政界を引退していますが、27年間議員を務めています。

ムッソリーニの子孫が活躍する背景には、イタリアではムッソリーニは独裁政治を行い戦争敗戦の責任で処刑されたものの、ナチスのような積極的な大量虐殺を行わなかったために、ドイツ程の禁忌的な存在ではないことが挙げられます。現在もムッソリーニの墓は、墓参りの人が絶えないそうです。

ムッソリーニはどのような政治をしたのか?

ムッソリーニが独裁者となるにはそれだけの理由があった

ムッソリーニはイタリアを「ファシズム国家」へと転換させ、22年間もの間首相を務め独裁政治を行いました。その22年間にどのような政治をしたのか見ていきます。

国家ファシスト党を設立し独裁政権を行った

ムッソリーニはイタリア国民の愛国心に訴えかけた

ムッソリーニは1920年から「愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア」といったイタリア人の情緒的な愛国心を強調し、反議会主義・反社会主義を唱えており、結果1926年に独裁政権を樹立しました。

独裁政権までの経緯は、1921年にファシスト運動を政党化し、「全国ファシスト党」を結成し最高指導者となっています。そして1922年には黒シャツに身を包んだファシスト党員4万人がローマ進軍を行うことにより政権獲得に成功しました。

ムッソリーニの支持基盤だった私兵組織(黒シャツ隊の源流)

当初ファシスト党は憲法にのっとった連立内閣の体を保っていましたが、1924年に反対派の議員が暗殺される事件が起きます。この時に過激派のファシスト党員を庇い、独裁宣言を行ったのです。

これにより1925年にイタリアのイタリアの議会制度が実質消滅しました。1926年までには反対する議員を辞任に追い込んでいき、ムッソリーニ暗殺計画が続いたために全ての野党が廃止され、いかなる野党を創設することも禁止となり独裁政権となったのです。

カトリック教会と同盟を組んだ

ヴァチカン市国

1870年の普仏戦争以降、イタリア教皇庁とイタリア王国は対立関係にありました。ムッソリーニは「テラーノ条約」を締結し、和平に成功します。

これによりイタリアとローマ・カトリックは和解し、ローマ教皇はイタリア王国を承認し、イタリア王国は教皇領廃止の補償金を教皇庁に払いヴァチカン市国が新たに誕生することとなりました。よってイタリア王国とローマ教皇庁との対立は終止符が打たれたのです。

日独伊三国同盟を結び第二次世界大戦に参戦した

日独伊三国同盟が結ばれたときの日本のプロパガンダ葉書

1939年第二次世界大戦が勃発すると、ムッソリーニは当初「中立」の立場を取っていました。しかしドイツが優勢になると漁夫の利を狙い、フランスとイギリスに宣戦布告し第二次世界大戦に参加します。1940年には日本・ドイツと「日独伊三国同盟」を結んでいます。

イタリア社会共和国の国旗、ムッソリーニが国家元首を務めたが実質はドイツの傀儡国家であった

しかし北アフリカ戦線でイタリア軍は次々に敗退し、国内でムッソリーニへの反発が強まっていきました。1943年に連合軍はローマまで迫り、ファシズム代表議会はムッソリーニを政権から排除することを決議し、国王も同意し逮捕され幽閉されてしまったのです。その後ドイツに救出され、「イタリア社会共和国」を作りイタリア王国と対抗しました。しかしパルチザンに捕まり、処刑されムッソリーニ政権は終わりを告げたのです。

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