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ムッソリーニとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

ムッソリーニはどのような政治をしたのか?

ムッソリーニが独裁者となるにはそれだけの理由があった

ムッソリーニはイタリアを「ファシズム国家」へと転換させ、22年間もの間首相を務め独裁政治を行いました。その22年間にどのような政治をしたのか見ていきます。

国家ファシスト党を設立し独裁政権を行った

ムッソリーニはイタリア国民の愛国心に訴えかけた

ムッソリーニは1920年から「愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア」といったイタリア人の情緒的な愛国心を強調し、反議会主義・反社会主義を唱えており、結果1926年に独裁政権を樹立しました。

独裁政権までの経緯は、1921年にファシスト運動を政党化し、「全国ファシスト党」を結成し最高指導者となっています。そして1922年には黒シャツに身を包んだファシスト党員4万人がローマ進軍を行うことにより政権獲得に成功しました。

ムッソリーニの支持基盤だった私兵組織(黒シャツ隊の源流)

当初ファシスト党は憲法にのっとった連立内閣の体を保っていましたが、1924年に反対派の議員が暗殺される事件が起きます。この時に過激派のファシスト党員を庇い、独裁宣言を行ったのです。

これにより1925年にイタリアのイタリアの議会制度が実質消滅しました。1926年までには反対する議員を辞任に追い込んでいき、ムッソリーニ暗殺計画が続いたために全ての野党が廃止され、いかなる野党を創設することも禁止となり独裁政権となったのです。

カトリック教会と同盟を組んだ

ヴァチカン市国

1870年の普仏戦争以降、イタリア教皇庁とイタリア王国は対立関係にありました。ムッソリーニは「テラーノ条約」を締結し、和平に成功します。

これによりイタリアとローマ・カトリックは和解し、ローマ教皇はイタリア王国を承認し、イタリア王国は教皇領廃止の補償金を教皇庁に払いヴァチカン市国が新たに誕生することとなりました。よってイタリア王国とローマ教皇庁との対立は終止符が打たれたのです。

日独伊三国同盟を結び第二次世界大戦に参戦した

日独伊三国同盟が結ばれたときの日本のプロパガンダ葉書

1939年第二次世界大戦が勃発すると、ムッソリーニは当初「中立」の立場を取っていました。しかしドイツが優勢になると漁夫の利を狙い、フランスとイギリスに宣戦布告し第二次世界大戦に参加します。1940年には日本・ドイツと「日独伊三国同盟」を結んでいます。

イタリア社会共和国の国旗、ムッソリーニが国家元首を務めたが実質はドイツの傀儡国家であった

しかし北アフリカ戦線でイタリア軍は次々に敗退し、国内でムッソリーニへの反発が強まっていきました。1943年に連合軍はローマまで迫り、ファシズム代表議会はムッソリーニを政権から排除することを決議し、国王も同意し逮捕され幽閉されてしまったのです。その後ドイツに救出され、「イタリア社会共和国」を作りイタリア王国と対抗しました。しかしパルチザンに捕まり、処刑されムッソリーニ政権は終わりを告げたのです。

ムッソリーニの功績

功績1「ドゥーチェ(統領)信仰という現象が起きた程のカリスマ性」

ムッソリーニも古代ローマの頃の栄光を取り戻したいと考えていた

ムッソリーニが独裁政権を設立すると、ドゥーチェ信仰という現象が起きたといいます。ムッソリーニの愛人が伝記を書き、彼は古代ローマの司令官ダックスの生まれ代わりだと持ち上げられました。ムッソリーニも「古代ローマ帝国を再興する」と演説しています。

ドイツで翌年起こったミュンヘン一揆は、ローマ進軍を模倣したものだった

1930年度は人気も最高潮に達し、ムッソリーニの警句がいたる所にペンキで書かれていたそうです。文言は「危険な生き方をせよ」「信じるべし、従うべし、戦うべし」などでした。ムッソリーニ自身も危険な生き方をしてきたために、長く拗れていたカトリック教会の問題を解決したり、「ローマ進軍」というクーデターを成功させたりと、世界を驚かし続けたのです。

功績2「反ユダヤ主義に否定的だったこと」

ムッソリーニは反ユダヤ主義ではなかった

ムッソリーニはユダヤ人に好意的でもありませんでしたが、反ユダヤ主義でもありませんでした。その為にドイツが人種政策を取り、ユダヤ人を迫害するようになると距離を取り、思想の違いを示していたといいます。ムッソリーニは「彼ら(ユダヤ人)は古代ローマの頃からこの土地にいる」としてユダヤ系イタリア人をかばう発言もしています。

その為にイタリアが治安維持した旧ユーゴスラビア地域でも、軍に対して反ユダヤ主義から守るよう命令しています。これに対してドイツは、イタリアを当時非常に非難したという話が残っています。このように反ユダヤ主義に否定的で、大量虐殺に極力参加しなかったのは功績といえるでしょう。

ムッソリーニの名言

ムッソリーニとヒトラー、ムッソリーニは現実的な見解を持っていた

彼らの言う人種はどこにいる?アーリア人とやらがどこにいる?それは何時から存在した?そもそも存在するのか?空論、神話、あるいはただの詐欺か?我々は既に答えを知っている。「そんな人種は存在しない」と。様々な運動、物珍しさ、麻痺した知性。我々は繰り返すだろう。「そんな人種は存在しない」と。ただ一人、ヒトラーを除いては。

1934年のドイツのヒトラーの演説を聞いての痛烈な批判です。ヒトラーが「純潔な人種」の演説を聞き、漏らした感想だそうです。非常に現実的に批判をしています。ムッソリーニが夢想家ではなく現実主義者であることがわかります。

親独路線を取りつつも考え方には「自分」を持っていたムッソリーニ

「人種」ですか!そんな概念は9割方は感性の産物ですよ。近代科学の生物学で人種などという概念が認められるなどと考える人間がどれだけいるでしょう。大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家のほとんどはドイツ人ではないのですよ。ゴビノーとラプージュはフランス人、チェンバレンはイギリス人、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。

ユダヤ人であるエーミール・ルートヴィヒが、ムッソリーニに「人種論」を尋ねた時の返答です。なんとも現実的な返答です。ムッソリーニは有色人種差別などもあったもののどれもヒトラー程の人種主義者ではなかったといわれています。

ムッソリーニは宗教に非常に懐疑的だったという

宗教は精神病の一種である。それは常に人類に病的な反応をもたらしてきた

ムッソリーニはカトリックのお膝元のイタリア国民でありながら、宗教に否定的だったといいます。ヒトラーの人種論の発言と合わせても非常に現実的な視点が垣間見えます。禁忌をはっきり発言するところが、若くしてイタリア国の首相になった理由の一つかもしれません。

ムッソリーニにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「ヒトラーが憧れていたらしい…」

4ヶ国で会談している時のムッソリーニとヒトラー

ドイツのヒトラーは、ムッソリーニに憧れを抱いていたといいます。その為にムッソリーニの「ローマ進軍」があった次の年には真似して、「ミュンヘン一揆」を起こしています。そして4ヶ国語を自由自在に話すムッソリーニに対し、ヒトラーはドイツ語しか話せないために、独伊英仏の会談をした時には、ムッソリーニに頼りっきりだったといいます。

ムッソリーニは語学力を駆使して、ヒトラーへ通訳しつつ英仏と会談したといわれています。後に会談に出席したフランス大使はこのように述べています。

ヒトラーはまるで催眠術でも掛けられたようで、ムッソリーニが笑う時に一緒に笑い、ムッソリーニが顔をしかめると一緒に顔をしかめていた

都市伝説・武勇伝2「女性に非常にモテたらしい」

2番目の妻で5人の子供を生んだラケーレ・グイーデイ

ムッソリーニはスポーツ万能、学業優秀な人物であったのもあり、若い頃から非常に女性にモテたそうです。結婚は2回、そして愛人も持ち、その他にも多くの女性と関係したといいます。最初の妻であるイーダ・ダルセルは2番目の妻のラケーレ・グイーデイと二股をかけられて別れていますが、イーダは認めずにあらゆる場所で「私はベニートの本当の妻である」と訴え続けたそうです。

これにはムッソリーニも手を焼いたようで、ムッソリーニが怪我で入院している時にラケーレが見舞いに行くと、イーダと鉢合わせしたといいます。そして妻と元妻は殴り合いの喧嘩になったそうです。前身包帯姿のムッソリーニは止めに入ることが出来ず、あと少しでイーダがラケーレの首を絞め殺しそうになっていた時に、看護師が止めに入ったという逸話が残っています。

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