ムッソリーニとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や死因も紹介】

ムッソリーニの生涯年表

1883年 – 0歳「イタリアのプレダッピオ市で誕生する」

プレダッピオ市にあるムッソリーニの生家

1883年にイタリア王国プレダッピオ市で、鍛冶師のアレッサンドロ・ムッソリーニと教師のローザ・ムッソリーニの間の長男として誕生しました。父が「社会主義的」思想の人物だったために、メキシコ独立の英雄ベニート・フアレスに因んでベニート、親しい国際主義的革命家の人物からアミルカレ、イタリア社会党の創始者からアンドーレアという父が尊敬している人の名前がつけられました。

ムッソリーニは「名は体を表す」の言葉の通りに、父から「社会主義」と「愛国主義」を叩き込まれながら成長したといいます。名前を見ると生まれながらに、人生が既にレールが敷かれていたようにも感じてしまいます。

優秀だが問題児の幼少期を過ごす

幼少期はいわゆる一匹狼タイプの不良だが勉強はできるというモテそうな人だった

ムッソリーニは活発で目立つタイプの子供だったようです。そして母が熱心なクリスチャンだったためにファエンツァにある修道会系の寄宿学校に通いますが、無神論者であるムッソリーニは学校に馴染めずに学校から脱走したり、上級生をナイフで刺したりの問題行動を起こし、退学処分を受けています。

そして5年生で宗教色のない寄宿学校に転校すると、ムッソリーニは以前とは逆に優秀な成績で卒業しています。そして周囲の勧めで下層階級でも栄達する事ができる教員資格を取るべく、師範学校の予備課程に入学しました。

1901年 – 18歳「教員として働くがすぐにスイス放浪の旅に出る」

先生を辞めてスイスを放浪して見聞を広めたといわれる

1901年にムッソリーニは師範学校を首席で卒業し、グァルティエリという町で教職に就いています。しかし程なくして職を辞して、スイスに放浪の旅に出ました。はっきりした理由はわかっていませんが、田舎が嫌だったとも、見聞を広げるためなどと憶測されています。

アンジェリカ・バラバーノフ、ムッソリーニにマルクス・レーニン主義をレクチャーしたという

スイスでは土木工事をしたりしてその日暮らしをしていましたが、この時にウクライナ人女性アンジェリカ・バラバーノフと出会い、マルクス・レーニン主義を徹底的に教えてもらいマスターしたといいます。またこの時期にドイツ語やフランス語をマスターし、後に大いに役立つこととなりました。しかしスイスでも政治活動をしていたために、スイス国にマークされ結局追放されてしまいました。

1905年 – 22歳「兵役のために従軍する」

イタリアの歩兵部隊、自転車が印象的だ

イタリアに戻るとすぐに軍隊に志願し、王国陸軍の第10狙撃兵連隊に配属されました。当初は反政府主義者とマークされていましたが、間もなく模範兵として評価されるようになっています。1906年には兵役を終え、オーストリアの国境近くのトルメッツォという町で教職に復職しています。その後オネーリアにある寄宿学校でフランス語の教師をしたりしながら、政治活動にも没頭していきました。

1912年 – 29歳「イタリア社会党の機関紙『アヴァンティ』の編集長となる」

アヴァンティ(写真は創刊号)

ムッソリーニはイタリア社会党で頭角を現し、若干29歳で党の指導者として演説するようになっていました。そして1912年には党最大の機関紙「アヴァンティ」の編集長となっています。編集長としての腕もかなりのもので、2年足らずで発行部数を2万部から10万部に押し上げています。

1914年 – 31歳「第一次世界大戦への参戦論の為に党を除籍される」

第一次世界大戦従軍時のムッソリーニ

1914年に第一次世界大戦が始まると、イタリア社会党は戦争反対の立場をとっていました。しかしムッソリーニはアヴァンティで「参戦論」を展開します。理由は封建的なオーストリアのハプスブルク家などを打倒することで、社会主義を前進できるという考えからでした。しかし党内委員会の否決により機関紙の編集長を辞し、党からも除籍処分しています。

その後は戦争に従軍し、前線で戦っています。そして1917年に塹壕戦で重傷を負い、その時の後遺症で片足に麻痺が残ったといわれています。その為前線復帰はせず、ミラノに療養している間も執筆活動をしていたそうです。

第一次世界大戦をわかりやすく解説!原因や結末、影響も年表付きで紹介

1919年 – 36歳「イタリア戦闘者ファッシを設立する」

ファシスト・マニフェスト

ムッソリーニは1919年に、自分と同じ服役軍人や参戦論者だった人たちで新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ」を設立しています。この時にファシスト・マニフェストを出版しています。主張として地中海沿岸部の統合を目指していました。この時に「古代ローマ帝国」を引き合いに出し、帝国を再統合すると主張しています。

1 2 3 4 5

コメントを残す