ムッソリーニの功績
功績1「ドゥーチェ(統領)信仰という現象が起きた程のカリスマ性」
ムッソリーニが独裁政権を設立すると、ドゥーチェ信仰という現象が起きたといいます。ムッソリーニの愛人が伝記を書き、彼は古代ローマの司令官ダックスの生まれ代わりだと持ち上げられました。ムッソリーニも「古代ローマ帝国を再興する」と演説しています。
1930年度は人気も最高潮に達し、ムッソリーニの警句がいたる所にペンキで書かれていたそうです。文言は「危険な生き方をせよ」「信じるべし、従うべし、戦うべし」などでした。ムッソリーニ自身も危険な生き方をしてきたために、長く拗れていたカトリック教会の問題を解決したり、「ローマ進軍」というクーデターを成功させたりと、世界を驚かし続けたのです。
功績2「反ユダヤ主義に否定的だったこと」
ムッソリーニはユダヤ人に好意的でもありませんでしたが、反ユダヤ主義でもありませんでした。その為にドイツが人種政策を取り、ユダヤ人を迫害するようになると距離を取り、思想の違いを示していたといいます。ムッソリーニは「彼ら(ユダヤ人)は古代ローマの頃からこの土地にいる」としてユダヤ系イタリア人をかばう発言もしています。
その為にイタリアが治安維持した旧ユーゴスラビア地域でも、軍に対して反ユダヤ主義から守るよう命令しています。これに対してドイツは、イタリアを当時非常に非難したという話が残っています。このように反ユダヤ主義に否定的で、大量虐殺に極力参加しなかったのは功績といえるでしょう。
ムッソリーニの名言
彼らの言う人種はどこにいる?アーリア人とやらがどこにいる?それは何時から存在した?そもそも存在するのか?空論、神話、あるいはただの詐欺か?我々は既に答えを知っている。「そんな人種は存在しない」と。様々な運動、物珍しさ、麻痺した知性。我々は繰り返すだろう。「そんな人種は存在しない」と。ただ一人、ヒトラーを除いては。
1934年のドイツのヒトラーの演説を聞いての痛烈な批判です。ヒトラーが「純潔な人種」の演説を聞き、漏らした感想だそうです。非常に現実的に批判をしています。ムッソリーニが夢想家ではなく現実主義者であることがわかります。
「人種」ですか!そんな概念は9割方は感性の産物ですよ。近代科学の生物学で人種などという概念が認められるなどと考える人間がどれだけいるでしょう。大体からして、彼ら(ナチス)が後生大事にしている人種理論家のほとんどはドイツ人ではないのですよ。ゴビノーとラプージュはフランス人、チェンバレンはイギリス人、ウォルトマンに至っては貴方と同じユダヤ人だ。
ユダヤ人であるエーミール・ルートヴィヒが、ムッソリーニに「人種論」を尋ねた時の返答です。なんとも現実的な返答です。ムッソリーニは有色人種差別などもあったもののどれもヒトラー程の人種主義者ではなかったといわれています。
宗教は精神病の一種である。それは常に人類に病的な反応をもたらしてきた
ムッソリーニはカトリックのお膝元のイタリア国民でありながら、宗教に否定的だったといいます。ヒトラーの人種論の発言と合わせても非常に現実的な視点が垣間見えます。禁忌をはっきり発言するところが、若くしてイタリア国の首相になった理由の一つかもしれません。
ムッソリーニにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「ヒトラーが憧れていたらしい…」
ドイツのヒトラーは、ムッソリーニに憧れを抱いていたといいます。その為にムッソリーニの「ローマ進軍」があった次の年には真似して、「ミュンヘン一揆」を起こしています。そして4ヶ国語を自由自在に話すムッソリーニに対し、ヒトラーはドイツ語しか話せないために、独伊英仏の会談をした時には、ムッソリーニに頼りっきりだったといいます。
ムッソリーニは語学力を駆使して、ヒトラーへ通訳しつつ英仏と会談したといわれています。後に会談に出席したフランス大使はこのように述べています。
ヒトラーはまるで催眠術でも掛けられたようで、ムッソリーニが笑う時に一緒に笑い、ムッソリーニが顔をしかめると一緒に顔をしかめていた
都市伝説・武勇伝2「女性に非常にモテたらしい」
ムッソリーニはスポーツ万能、学業優秀な人物であったのもあり、若い頃から非常に女性にモテたそうです。結婚は2回、そして愛人も持ち、その他にも多くの女性と関係したといいます。最初の妻であるイーダ・ダルセルは2番目の妻のラケーレ・グイーデイと二股をかけられて別れていますが、イーダは認めずにあらゆる場所で「私はベニートの本当の妻である」と訴え続けたそうです。
これにはムッソリーニも手を焼いたようで、ムッソリーニが怪我で入院している時にラケーレが見舞いに行くと、イーダと鉢合わせしたといいます。そして妻と元妻は殴り合いの喧嘩になったそうです。前身包帯姿のムッソリーニは止めに入ることが出来ず、あと少しでイーダがラケーレの首を絞め殺しそうになっていた時に、看護師が止めに入ったという逸話が残っています。