決別の手紙を残しキューバを去る
ゲバラは革命から6年後に、「別れの手紙」を残してキューバを去りました。革命後のゲバラは工業相に就任しますが、アメリカの経済封鎖による資源不足と、福祉事業の無料化により財政はひっ迫していきます。徐々に理想主義者のゲバラは、キューバ首脳陣の中で孤立していったといいます。
そこにとどめを刺したのが、キューバの最も主要な外交相手だったソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難し論争を巻き起こしてしまいます。
ソ連はキューバに対し、「ゲバラをキューバ首脳陣の中から外さなければ物資の援助を削減する」と通告します。そしてゲバラはキューバの政治の一線から退くことを伝え、カストロ・父母・子供達に手紙を残してキューバを離れたのです。
チェ・ゲバラの死因と遺骨の行方
ゲバラの死因はボリビア兵による銃殺刑です。銃殺までの経緯は、ゲバラはキューバを去った後に、各国を転々としますが、最終的に再度キューバに戻ってきています。そしてカストロとの会談の後に、新たな活動の場としてボリビアに渡り大陸革命を目指しました。しかし親ソ的なボリビア共産党の支援を得られず、またCIAなどを顧問に政府軍がゲリラ対策の訓練を受けていたために苦戦を強いられました。
1967年アンデス山脈のチューロ渓谷で、政府軍に捕えられてしまいます。近くの小学校に待機していましたが、CIAから「ゲバラを殺せ」という電報を受信。ゲバラは政府軍によって計4発の銃弾を浴びて絶命しました。最後の言葉は「お前の目の前の男は英雄でも何でもないただの男だ。撃て!臆病者め!!」だったといいます。享年39歳でした。
遺体は無名のまま埋められました。しかし1997年のキューバとボリビアの合同捜索隊により、死後30年でボリビア空港の滑走路の下で遺骨が発見されて、遺骨は遺族らがいるキューバに送られています。キューバではゲバラの「帰国」に遺体を霊廟に送る列に、多くのキューバ国民が集まりました。遺体はキューバ中部の都市サンタクララに設けられた霊廟に葬られました。
革命家としてのゲバラの思想
ゲバラのモットーは、「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(反帝国主義人民戦争)を作れ!」だったといいます。また非常に理想主義者であり、「共同体のために尽くし、労働を喜びと感じる『新しい人間』」の育成を目指し、その出現を国家展望としました。
彼の言葉に「何キログラムの肉が食べられるか、あるいは一年に何回休みの日に海岸に遊びに行けるか、あるいは現在の給料でどれほどの美しい輸入品を買えるか、それは問題ではない」といい、理想論的すぎるとキューバ国内でも反感を招いています。
この彼の理想主義は結果的に、「戦火をまき散らす男」という負のイメージと、「清廉で理想に燃えた革命家」という対極的な評価が与えられる理由となりました。
実は日本に来訪していた
1959年、ゲバラはキューバの通商使節団を連れて日本を訪れています。当時の日本ではゲバラの知名度は高くなく、訪日も朝日新聞が取り上げたぐらいでした。ゲバラはトヨタ工業や三菱重工業の飛行機制作現場など訪れた後に、池田隼人通産相と会談しています。
その後大阪に向かいますが、広島が遠くないことを知り急遽広島を訪問。原爆資料館や広島平和公園内の死没者慰霊碑に献花して、広島県庁を訪れたといいます。この時に「中国新聞」の林立雄記者が単独取材していますが、「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と聞いたそうです。ゲバラが広島の状況を伝えて以来、キューバでは現在でも初等教育で広島と長崎の原爆投下を取り上げているそうです。
とても真面目だったゲバラの性格
ゲバラの性格を要約していうなら良くも悪くも、「恐ろしく真面目で融通がきかない厳格な性格」と思われていたようです。行動力がある上に、喘息という持病を抱えつつも公務と勉学にストイックに励むタイプで、人にもそれを求めるために必ずしも良く思われているわけではなかったそうです。
当時部下だった人は、「冷徹、尊大で、まるで我々の教師のように振舞う」といっています。ただし人に求めるだけの自分に対してのストイックを貫いていたために、フランスの作家レジス・ドブレはゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と印象を述べています。カストロはゲバラのことを、「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を兼ね備えた真の革命家」と評していました。