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チェ・ゲバラとはどんな人?生涯・年表まとめ【名言や最後の様子も紹介】

実は日本に来訪していた

原爆投下にゲバラは直球の質問を記者に問いかけている

1959年、ゲバラはキューバの通商使節団を連れて日本を訪れています。当時の日本ではゲバラの知名度は高くなく、訪日も朝日新聞が取り上げたぐらいでした。ゲバラはトヨタ工業や三菱重工業の飛行機制作現場など訪れた後に、池田隼人通産相と会談しています。

その後大阪に向かいますが、広島が遠くないことを知り急遽広島を訪問。原爆資料館や広島平和公園内の死没者慰霊碑に献花して、広島県庁を訪れたといいます。この時に「中国新聞」の林立雄記者が単独取材していますが、「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と聞いたそうです。ゲバラが広島の状況を伝えて以来、キューバでは現在でも初等教育で広島と長崎の原爆投下を取り上げているそうです。

とても真面目だったゲバラの性格

追悼式のカストロ(一番左)とゲバラ(右から二番目)

ゲバラの性格を要約していうなら良くも悪くも、「恐ろしく真面目で融通がきかない厳格な性格」と思われていたようです。行動力がある上に、喘息という持病を抱えつつも公務と勉学にストイックに励むタイプで、人にもそれを求めるために必ずしも良く思われているわけではなかったそうです。

当時部下だった人は、「冷徹、尊大で、まるで我々の教師のように振舞う」といっています。ただし人に求めるだけの自分に対してのストイックを貫いていたために、フランスの作家レジス・ドブレはゲバラの印象を「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」と印象を述べています。カストロはゲバラのことを、「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を兼ね備えた真の革命家」と評していました。

チェ・ゲバラの功績

功績1「キューバ革命成功に大きく貢献したこと」

キューバ革命時のゲバラ

チェ・ゲバラの一番の功績は、やはり「キューバ革命」の成功に大きく貢献したことではないでしょうか。カストロ兄弟などキューバ出身の革命軍の補佐として、アルゼンチン出身のゲバラが司令官まで登り詰める活躍は並みの人が出来ることではありません。

軍医としても活躍し、司令官としても活躍したゲバラの力もあり、紆余曲折しつつも現在のキューバという国の礎を作った一人といえるでしょう。

功績2「南アメリカの英雄となったこと」

コロンビア国立大学の「チェ広場」

ゲバラの劇的な生涯と思想は、冷戦下における南アメリカ諸国の軍事政権・独裁政権下で独立を目指す人たちに熱狂的に支持されました。ゲバラの写真は1960年後半ごろからTシャツやポスターに印刷されシンボルとされました。

南アメリカ諸国の大学では、今でもゲリラ時代のゲバラの顔を描いた多くの垂れ幕がみられます。批判も多いゲバラですが、彼の行動力や正しいと思った事に突き進むパワーは現在でも南アメリカで「チェ・ゲバラ」という存在の大きさがわかります。ゲリラの一人ではなく、「チェ・ゲバラ」という人間が今も語り継がれるのは彼の功績といえるのではないでしょうか。

チェ・ゲバラの名言

ベトナムのような国を増やすのがゲバラの願いだった

我々は、二つのベトナム、そして、三つのベトナム、さらに、数多くのベトナムをつくるべきであると主張すべきである

ゲバラの革命の理想を一番表しているといわれています。武力抗争が唯一の圧政から救う手段という認識です。言葉の力に、考え方の賛否はあれどもここまで国を変えようという熱意と力を感じてしまう言葉です。

革命のスローガンだったという

祖国か、死か!

自分の祖国を選ぶか、死を選ぶか、如何に背水の陣を引いて革命に命をかけていたのかがわかる言葉です、これだけの覚悟がないと、革命は起こせないのでしょう。

革命家とは多くの愛を持っているという

バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家など想像できない。

ゲバラという人が見えてくる言葉です。国を変えようという人によっては野蛮と取られてしまいかねない行為も、全ては「愛」からなり愛する人のために行動していたことがわかる言葉です。

チェ・ゲバラにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「トレードマークの葉巻の人は…」

トレードマークの葉巻には理由があった!?

ゲバラというと葉巻の咥え葉巻のイメージがありませんか?喘息持ちなのに、大丈夫なのかと不思議に思ってしまいますが、葉巻にも理由がありました。まず葉巻は革命家の象徴だといいます。

そしてゲリラ戦においての虫よけの役割を果たすそうです。そして葉巻がキューバの特産品だったために、世界への商品アピールも兼ねていたということです。格好をつけるための演出だけでなく、色々な意図があったのです。

都市伝説・武勇伝2「紙幣のサインも『チェ』とサインしたらしい」

紙幣に「チェ」とサインしたことには驚いてしまう

国立銀行総裁の職に就任した際に、それまでフルネームで記入する慣習だった紙幣に「チェ」とのみサインしたといいます。これは革命前、札束がものをいう社会だったことへの痛烈な批判が込められていたといいます。そのために拝金思想を嫌悪していたそうです。

このような考え方のゲバラが、銀行総裁職に就任したのも適材適所とはいいづらい気もします。そのため、新政府の総裁を決めるときにカストロが「誰かエコノミスタ(経済通)はいないか?」と問い合わせたのを居眠りしていたゲバラが、「コノミスタ(共産主義者)」と聞き間違えて手を挙げたのではないかという噂が広まったそうです。

チェ・ゲバラの生涯年表

1828年 – 0歳「アルゼンチンのロサリオで誕生する」

未熟児として誕生し、体が弱かったという

1828年にアルゼンチンのロサリオで、バスク系アルゼンチン人のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチと、アイルランド系アルゼンチン人の母セリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサの間に生まれました。

未熟児として生まれ、2歳の時に喘息と診断されています。両親は子供の健康を第一に考えて、数回転居しています。ゲバラの喘息は酷く、痙攣を伴う発作を起こして酸素吸入器を使用して回復する状況だったといいます。

5歳の頃のゲバラ、重度の喘息に苦しめられたという

しかし「ラグビー」や「サッカー」などの激しいスポーツを愛好したといい、酸素吸入器を持ち歩いて発作が起きたら使用して治まるとプレイに戻っていたそうです。医学生時代には「タックル」というラグビー雑誌を発行して、自ら編集するほど打ち込んでいました。

ブエノスアイレス大学の医学部に入学する

エリートコースの医学部に入学するが波乱の人生を送ることとなった

1948年にブエノスアイレス大学の医学部に入学しています。ゲバラ自身が重度の喘息だったために、アレルギーの研究を志していたそうです。大学の在学中にオートバイで南アメリカを周る放浪旅行を経験しています。その時にチリの最下層の鉱山労働者や、ハンセン病患者と出会っています。

この時にアルゼンチン以外の国の見聞を広めて、マルクス主義にも共感するようになっていったといいます。そして医学部を卒業することを決意し、途中放浪時期があったにもかかわらず通常6年の学業を3年で収め、医師免許を取得し1953年に卒業しています。

1953年 – 25歳「再度放浪後グアテマラでイルダと結婚する」

ゲバラの最初の妻イルダ

大学を卒業後、独裁のペロン政権の元で軍医になることを避けるために再度南米放浪の旅に出ています。南米各地を訪問していますが、この時ボリビア革命が進んでいるボリビアを訪問して、それまで虐げられていたインディオが解放され、自由な雰囲気が漂っていることに衝撃を受けたといいます。

その後グアテマラに辿り着き、医師として働いている時に、ペルーからの亡命者イルダ・ガデアと出会い社会主義の思想に急速にのめり込んでいったといいます。そして彼女と結婚しました。

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