チェ・ゲバラの生涯年表
1828年 – 0歳「アルゼンチンのロサリオで誕生する」
1828年にアルゼンチンのロサリオで、バスク系アルゼンチン人のエドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチと、アイルランド系アルゼンチン人の母セリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサの間に生まれました。
未熟児として生まれ、2歳の時に喘息と診断されています。両親は子供の健康を第一に考えて、数回転居しています。ゲバラの喘息は酷く、痙攣を伴う発作を起こして酸素吸入器を使用して回復する状況だったといいます。
しかし「ラグビー」や「サッカー」などの激しいスポーツを愛好したといい、酸素吸入器を持ち歩いて発作が起きたら使用して治まるとプレイに戻っていたそうです。医学生時代には「タックル」というラグビー雑誌を発行して、自ら編集するほど打ち込んでいました。
ブエノスアイレス大学の医学部に入学する
1948年にブエノスアイレス大学の医学部に入学しています。ゲバラ自身が重度の喘息だったために、アレルギーの研究を志していたそうです。大学の在学中にオートバイで南アメリカを周る放浪旅行を経験しています。その時にチリの最下層の鉱山労働者や、ハンセン病患者と出会っています。
この時にアルゼンチン以外の国の見聞を広めて、マルクス主義にも共感するようになっていったといいます。そして医学部を卒業することを決意し、途中放浪時期があったにもかかわらず通常6年の学業を3年で収め、医師免許を取得し1953年に卒業しています。
1953年 – 25歳「再度放浪後グアテマラでイルダと結婚する」
大学を卒業後、独裁のペロン政権の元で軍医になることを避けるために再度南米放浪の旅に出ています。南米各地を訪問していますが、この時ボリビア革命が進んでいるボリビアを訪問して、それまで虐げられていたインディオが解放され、自由な雰囲気が漂っていることに衝撃を受けたといいます。
その後グアテマラに辿り着き、医師として働いている時に、ペルーからの亡命者イルダ・ガデアと出会い社会主義の思想に急速にのめり込んでいったといいます。そして彼女と結婚しました。
1955年 – 27歳「グアテマラを離れメキシコでカストロと出会う」
1955年にグアテマラの革命政府が倒れ、新政府にゲバラの暗殺命令が出ていたために妻と共にメキシコに亡命しています。グアテマラ政権の崩壊がきっかけで、ゲバラは武力によるラテンアメリカ革命を志すようになりました。
失意のままメキシコに亡命したゲバラは、キューバから亡命していたフィデル・カストロと出会います。キューバのフルヘンシオ・バティスタ独裁政権の打倒に共鳴したゲバラは、一夜にして反バディスタ政権のゲリラ闘争への参加を決意したといわれています。
1955年 – 27歳「キューバ革命に参加する」
1955年にカストロをリーダーとした82名がプレジャーボート「グランマ号」に乗り込みました。グランマ号は7人乗りでしたが、10倍以上の人員オーバーによる劣悪な衛生状態と嵐の中を出港した為の悪天候により、到着の頃には皆疲弊していたといいます。
また反乱軍の動向はキューバ政府にも筒抜けになっていたために、上陸直後に攻撃を受けて結局生き残ったのは12名といわれています。上陸後はシエラ・マエストラ山脈に潜伏し、軍の立て直しを図っています。そして国内の反乱軍と合流し、増強していきました。
当初ゲバラは軍医でしたが、革命軍の政治放送するラジオ局を設立。冷静な判断能力などを買われて頭角を現していきます。上陸から1年後には、カストロから第2軍のコマンダンテ(司令官)を任されるまでとなります。名実とともに革命軍のナンバー2となったのです。
1959年 – 31歳「キューバ革命が達成する」
1959年に遂にフルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国に亡命し、一週間後にカストロがハバナに入城し「キューバ革命」は達成されました。ゲバラは献身的な働きによりキューバ市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任しています。
日本に来訪する
1959年にはキューバの通商使節団を引き連れて、日本に訪れています。この時は、トヨタや三菱重工などを見学した後に、大阪から急遽広島を訪問。そこで広島平和記念公園内の原発死没者慰霊碑に献花し、原爆資料館と原爆病院を訪問しています。
この時にゲバラが記者に、「なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか」と質問したといいます。後年ゲバラの子供たちも広島を訪問しているそうです。