ルイ14世は、近世フランス王朝(ブルボン王朝)の3代目国王です。5歳で国王となり、生涯の72年をかけてブルボン王朝の最盛期を築きました。
英雄ルイ14世の存在なくして今のフランスはなかったといっても過言ではありません。
しかし、晩年は散財や度重なる戦費によって財政難に陥り衰退の一途をたどりました。煌びやかなフランス王朝の最盛期を生きたものの、晩年は衰えていく国力にもがいたルイ14世。彼の生涯とはいったいどのようなものだったのでしょう?
この記事ではルイ14世の生涯や治世、性格にいたるまで、ヨーロッパ史が大好きで小学生の頃から図書館でヨーロッパ文化本を読んでいた筆者が紹介します。
この記事を機に、謎めく英雄の素顔をのぞきに行きましょう。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、岩野祐里(いわのゆり)。5歳の頃、イギリス史に夢中になり図書館へ通いながら育つ。大学では国際文化を専攻し、イギリス史と英文学の研究に没頭。その後、大学院にて修士課程を修了。研究論文は「19世紀英国の社会と犯罪」について。歴史全般の研究歴は11年、イギリス史は21年に及ぶ。現在はWebライターとして活動中。
ルイ14世とはどんな人物か
名前 | ルイ=デュードネ(ルイ14世) |
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異名 | 太陽王、ルイ大王、ナバラ国王 |
誕生日 | 1638年9月5日 |
没日 | 1715年9月1日 |
生地 | フランス王国 |
没地 | フランス王国 |
配偶者 | マリー・テレーズ・ドートリッシュ |
埋葬場所 | サン=ドニ大聖堂(フランス王国) |
ルイ14世の生涯をハイライト
ルイ14世は、父ルイ13世と母アンヌ・ドートリッシュとの間に生まれました。父の死去とともに、わずか5歳でフランス王位を継承。母アンヌが摂政*(せっしょう)を務め、枢機卿*(きょうきょう)マザランが宰相となって国政を行いました。
一時期はパリを追われる事態となりましたが、マザランが鎮圧したおかげで王政が更に強まり、ルイ14世は太陽王としてフランス絶対王政の最盛期を築きます。
マザランの死後は自ら国政を実施。国内の商業保護や社会福祉支援とともに、侵略戦争を繰り返して海外領土の確保にも取り組みました。
絶対王政の象徴としてヴェルサイユ宮殿も建設し王の権力を見せつけましたが、晩年は戦費や宮廷の散財によって国を財政難に陥れます。そして、壊疽(体の組織が腐敗する壊死の合併症)の悪化によって76歳でこの世を去りました。
謎めいた生い立ち
ルイ14世は1638年に父ルイ13世と母アンヌの長男として誕生。初の王太子誕生にフランス国民は大喜びしましたが、ルイ14世の生い立ちには謎がありました。
実は父ルイ13世と母アンヌは長年不仲で23年間も子どもができなかったのです。そこに突然の王太子誕生とくれば「ひょっとしてルイ14世はルイ13世の子どもではないのでは?」という噂が流れるのも無理はありませんでした。
ルイ13世の宰相リシュリューが父親だと言う人もいれば、枢機卿マザランが父親だと噂した者もいます。どちらも噂話に過ぎませんが、ルイ13世は同性愛の傾向が強かったため「父親はルイ13世ではない」という説が根強く残っているのです。
時計のような正確さを持つ気性の持ち主
「暦と時計さえあれば、遠く離れた場所からでも国王が何をしているか分かる」と言われるほどルイ14世は時間に正確でした。
ルイ14世は日々の生活を起床から就寝まで儀式のように行い、宮廷に仕える臣下たちに見せる公式晩餐も死ぬ直前まで欠かさなかったといいます。こうした規則正しい生活のおかげかルイ14世の身体はとても健康で自ら戦場に赴き戦うこともありました。
ただし、その分周りの人間に自分の価値観を押し付ける傾向があり名声を求める欲求も人一倍でした。臣下が尽力してくれた政務も自らの手柄としたり臣下からの賞賛を何よりも望む人だったのです。
その性格は行動にも如実に表れています。儀式的な生活にも関わらず忠実に従事してくれた臣下には褒美を与える一方で従事をしない者は名前すら覚えませんでした。