ルイ14世はどんな人?生涯・年表まとめ【死因や名言も紹介】

ルイ14世の生涯年表

1638年9月5日 – 0歳「ルイ14世誕生」

男の子の赤ちゃん

1638年の9月5日、ルイ14世はフランスの首都パリの西部(サン=ジェルマン=アン=レー)にて誕生。洗礼名はルイ=デュードネといい、フランス国王ルイ13世と母アンヌ・ドートリッシュの間に生まれました。

長い間子供ができなかった国王夫妻に王太子が生まれたことで国民たちは喜びに満ち溢れましたが、中にはこの出生に疑問を持つ人もいたといいます。

ルイ14世の祖父はユグノー戦争のユグノー盟主

ルイ14世の家系は歴史的に有名な人々が数多く存在しました。父親側の祖父はブルボン王朝を開いたアンリ4世であり、フランスの宗教戦争であるユグノー戦争ではプロテスタントであるユグノー側の盟主としてカトリック側と戦ったのです。

アンリ4世

祖父アンリ4世はナント勅令を出してプロテスタントの信仰の自由を認めさせユグノー戦争を終結させました。また、スペイン出身の母親側の祖父はスペイン王フェリペ3世です。

ルイ14世は生まれた瞬間から歴代の王族の頂点に名を連ねることになりました。

1643年 – 5歳「フランス国王に即位」

父ルイ13世が41歳の若さで亡くなり、ルイ14世はたった5歳でフランス国王に即位します。ですが、5歳の少年に国政を任せるわけにはいきません。

その結果、母であるアンヌ・ドートリッシュが摂政になり政治家で枢機卿のマザランが宰相となり国政に携わったのです。

母アンヌはマザランに全ての権限を与えて国政を任せましたが、マザランは有能でありつつも財産に貪欲だったため貧しい国民の怒りを買う羽目になります。

三十年戦争による重税に国民の不満が高まる

ルイ14世が王位を継いだ頃、フランスはヨーロッパ間で行われていた三十年戦争に勝利したばかりでした。しかし、長きにわたる戦争によってフランスの財政は圧迫しており戦費を賄うために国民に重税を課していたのです。

枢機卿マザラン

マザランは三十年戦争の条約において海外領土を獲得するなど外交的な成果を収めましたが、フランス国内では民衆に重税を課して全権力を握るマザランに貴族や市民、農民など国民全体が不満を持っていました。

1648年 – 10歳「フロンドの乱」

ルイ14世が10歳の時にマザランの国政に対する貴族や市民、農民の不満が爆発し、フロンドの乱が勃発します。フロンドとは投石器のことであり、内乱中にマザランの屋敷に投石器で石を投げつけたことから名付けられたのです。

フロンドの乱は最高司法機関でもあった高等法院が市民とともに国内にバリケードを築く「高等法院のフロンド」から始まりました。内乱の首謀者が逮捕されると今度は農民と貴族たちがパリを占拠し、ルイ14世の寝室まで侵入する騒ぎを起こしたのです。

ルイ14世の成人をもって内乱は終結に向かう

フロンドの乱でルイ14世たちと敵対したコンデ公

ルイ14世を二度もフランスの首都から追い出した「フロンドの乱」ですが、ルイ14世が満13歳になり成人を迎えると内乱は終結へと向かいます。

本来の国王が成人したことで高等法院が王族側に味方しルイ14世がパリへ舞い戻ることになったのです。そして、敵対していた貴族のコンデ公がスペイン領へ亡命したことで「フロンドの乱」は終結しました。

1660年 – 22歳「マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と結婚」

ルイ14世とマリー・テレーズの婚儀の様子

フランス・スペイン戦争の終戦条約であるピレネー条約によって、ルイ14世は22歳でスペイン王の娘マリー・テレーズと結婚。2人の間には6人の子どもがうまれましたが、夫婦仲はよくありませんでした。

マリーとの結婚時にスペイン側は莫大な持参金の支払いを約束しましたが支払われなかったため、のちにルイ14世がスペインに戦争を仕掛ける口実として使われてしまいます。

1661年 – 23歳「自ら政治に携わる」

1661年に宰相であったマザランが死去すると、当時23歳だったルイ14世は自ら政治に携わるようになりました。大貴族たちよりも能力のある新興貴族を登用し都市部での王権を強め、地方には監査官を派遣して大貴族の権限を弱めたのです。

ルイ14世は社会的地位の高い大貴族の力を弱めることで絶対王政の力を最大限に使えるようにしていきました。そして、国内の教育や福祉に尽力したのです。

*大貴族
血筋や財産から社会的地位の高い貴族たちのこと

*新興貴族
爵位を授かり一族間で相続している貴族のこと

ヴェルサイユ宮殿の造設開始

18世紀初頭のヴェルサイユ宮殿の様子

自ら国政を動かすようになったルイ14世は理想の宮殿を作るべく、ヴェルサイユ宮殿の建設に着手します。

建築家のル・ヴォーや造園家のル・ノートル、室内装飾家のシャルル・ルブランなど当時の代表的な職人たちがルイ14世の指示のもと緻密に宮殿を作り上げました。

1667年 – 29歳「帰属戦争が勃発」

ルイ14世は王妃マリー・テレーズの持参金が支払われていないことを理由にスペイン領南ネーデルラントを手に入れようと帰属戦争を開始しました。

この戦争はルイ14世にとって初めての侵略戦争であり、この帰属戦争をきっかけにオランダ侵略戦争やアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争を起こしていったのです。

1685年 – 47歳「ナントの勅令を廃止」

ナントの勅令の原本

1685年、ルイ14世は祖父アンリ4世が定めた「ナントの勅令」を廃止することを決めます。「ナントの勅令」とはプロテスタントの信仰の自由を認めるものでしたが、廃止後はプロテスタントに対して厳しい弾圧が起こりました。

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