戊辰戦争とは?原因や流れ、主要人物をわかりやすく解説【年表付き】

戊辰戦争で起こった有名な戦いと主な出来事

有名な戦いと主な出来事について解説します。

  • 鳥羽伏見の戦い
  • 徳川慶喜の大坂城脱出
  • 西郷・勝会談と江戸開城
  • 上野戦争・彰義隊の戦い
  • 奥羽越列藩同盟の結成と東北政権の樹立
  • 北越戦争
  • 会津戦争
  • 榎本政権の誕生
  • 函館戦争

鳥羽伏見の戦い

戊辰戦争は、鳥羽伏見の戦いからはじまった

1868年1月3日、京都をめざし北上する旧幕府軍と新政府軍が鳥羽、伏見の二方面にて激突します。鳥羽では見廻隊と桑名藩兵が、伏見では新選組と会津藩兵が中心となる旧幕府軍が奮戦しますが、いずれも支えきれずに退却します。

この段階では薩長軍・長州軍と徳川軍の私闘でした。ところが1月4日、朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任じ、錦の御旗と節刀をあたえます。これによりはじめて「新政府軍」対「旧幕府軍」という公的な戦いへと変化しました。

旧幕府軍の戦力は幕兵に会津藩兵・桑名藩兵合わせて1万5000。対する新政府軍は薩摩藩・長州藩の5000。数では圧倒的に旧幕府軍が優位だったものの、装備や士気の点で劣った上、1月6日には味方であった淀藩や津藩の寝返りが決定打となり敗れ去りました。

徳川慶喜の大坂城脱出

大坂城を脱出する徳川慶喜

鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府方の軍勢は大坂城に集結します。軍議では軍を立て直して薩長と決戦をしようとする意見が多く、徳川慶喜も一度は出馬を宣言します。しかしその夜、慶喜はひそかに松平容保ら数名の側近をつれて大坂城を脱出、海路を江戸へと戻ってしまいました。

江戸城に入った慶喜は、主戦派の小栗上野介や大鳥圭介らを遠ざけつつ、陸軍総裁に勝海舟を登用し後を託します。さらに2月12日には江戸城を出て上野・寛永寺にて自ら謹慎。新政府に対し謝罪・恭順の意を示すためでした。

西郷・勝会談と江戸開城

会談の地には石碑が立てられている

一方、新政府軍では徳川慶喜追討を決し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督として進軍を開始しました。主君・慶喜と江戸の町を守りたい勝海舟は、江戸城の無血開城と引き換えに慶喜の助命を願い出ます。3月13日・14日、薩摩藩邸にて勝・西郷会談が実現。江戸城総攻撃は中止となりました。4月11日に江戸城が開城されると、徳川慶喜の身柄は水戸・弘道館、ついで駿河・宝台院へと移されました。

上野戦争・彰義隊の戦い

上野戦争を描いた絵画(本能寺の変に模して描かれている)

当時、江戸では抗戦派の幕臣も多く、そのために結成されたのが幕臣・渋沢誠一郎を頭取とする彰義隊です。恭順派は江戸での戦争を避けようと彰義隊に江戸市内の警護を命じています。彰義隊は輪王寺宮を奉じて上野・寛永寺を拠点としつつ、新政府軍へのテロ行為を繰り返しました。

上野戦争は、5月15日に開始します。この時の新政府軍の戦力は1万、彰義隊は開戦時で1000でした。新政府側の指揮官・大村益次郎は本郷台に佐賀藩のアームストロング砲など各藩の砲隊を配備します。午前中は彰義隊が奮戦し一進一退の攻防となりますが、正午に砲撃がはじめると一気に新政府軍優勢となり、その日のうちに彰義隊は壊滅しました。

奥羽越列藩同盟の結成と東北政権の樹立

奥羽越列藩同盟に参加した藩を表した地図

1868年6月、東北地方の諸藩により軍事同盟が成立、「奥羽越列藩同盟」と呼ばれます。はじめ奥羽の諸藩は新政府に従いつつ、会津藩・庄内藩への寛容な措置を求めていました。しかし新政府軍が高圧的な態度で両藩への侵攻を命じたため、これに反発。開戦を決意します。

同盟軍は輪王寺宮を盟主とし、政策を合議するための公議所を白石城に設置しました。このため、奥羽越列藩同盟を「東北政権」とする説があります(異説あり)。結局は庄内、長岡、仙台、会津といった各藩が新政府軍に敗れ、同盟軍は壊滅。輪王寺宮は9月18日に降伏しました。

北越戦争

北越戦争を描いた絵画(川中島合戦に模して描かれている)

1868年5月2日。長岡藩の家老・河井継之助は小千谷において新政府軍の軍監・岩村高俊と談判を行いますが決裂。長岡藩は奥羽同盟への参加と新政府軍との戦いを決断しました。なお新政府軍の戦力2万に対し長岡藩・同盟軍は8千と言われています。

5月10日、同盟軍は新政府軍に制圧されていた榎峠を奪還します。新政府軍は13日に反撃するも、奇兵隊参謀・時山直八が戦死。5月19日、山県有朋の指揮のもと信濃川をわたった新政府軍が手薄になっていた長岡城をめざし殺到しました。

指揮官の河井継之助は自ら救援にむかい、ガトリング砲を操射して応戦。長岡藩は当時日本に3門しかなかったガトリング砲のうち、2門を所有していました。しかし激戦の末、河井は敵銃弾を受け退却、長岡城は落城します。このとき、城は長岡藩士の手によって爆破されました。

八丁沖に建てられた石碑

その後、河井は底なし沼と呼ばれる八丁沖を渡河して長岡城を奪還する夜襲作戦を考えます。この作戦が成功し、7月25日早朝に長岡城の奪還に成功しました。一方、敗走した新政府軍もすぐに反撃に出ます。迎え撃とうとした河井は膝に弾丸を受け戦線を離脱。7月29日長岡城はふたたび新政府軍の手に陥落しました。重傷を負った河井継之助は、8月16日に会津塩沢にて死去しています。

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