会津戦争
1868年4月20日、会津藩は来たるべき新政府軍との戦いに備えるため、白河城を占拠します。その後、4月25日には新政府軍が攻め寄せ、激戦の末5月1日に白河城を奪取します。その後も会津藩軍を中心に白河城奪還を試みますが、失敗に終わります。この戦いでは新政府軍の戦力750に対し同盟軍は最大4千500でした。
同盟軍は、6月24日に棚倉城、7月29日には二本松城を奪われています。二本松藩では兵士の多くが出征していて、城の守備隊として砲術師範・木村銃太郎とその教え子である少年兵が奮戦するものの落城。なお、この戦いでは新政府軍の戦力7千に対し二本松藩・同盟軍1千でした。
二本松城を落とした新政府軍は、8月20日に会津へと動きます。いくつかある進軍コースのうち、脇街道である母成峠に戦力をあつめて突破を図る作戦でした。守る会津藩は、各主要街道の封鎖に兵を割かなければなりません。主力部隊は勢至堂峠に布陣していました。会津藩は萩岡、中軍山と猿岩、母成峠と三段構えの陣で防戦しますが、新政府軍の火力の前に次々と敗退してしまいます。
母成峠陥落の知らせを受けた会津藩では、城の玄関口にあたる戸ノ口原にかかる十六橋を破壊し、新政府軍の進軍を阻止しようとしました。しかし間に合わず、8月22日夕刻には新政府軍が到着、襲撃を受けてしまいます。8月23日朝、新政府軍は戸ノ口原を攻略、いよいよ会津若松城下へと突入します。
会津藩は会津若松城にろう城する一方、新選組など一部の部隊が遊撃戦を展開します。しかし9月に入り米沢藩など同盟諸藩が降伏、望みを絶たれた会津藩はついに9月22日に降伏をしたのでした。会津若松城でのろう城戦では新政府軍の戦力3万に対し、会津藩・同盟軍5000でした。
榎本政権の誕生
1868年10月28日、榎本武揚率いる旧幕府軍は函館に上陸します。新政府軍方に属する松前藩と交戦し松前城を落とすと、12月15日には榎本武揚を総裁とする事実上の政権を立ち上げました。総裁である榎本武揚の名から榎本政権、あるいは函館政権や蝦夷共和国と呼ばれます。
榎本政権での幹部は選挙によって選ばれており、陸軍奉行に大鳥圭介、陸軍奉行並に土方歳三、箱館奉行に永井玄蕃、海軍奉行に荒井郁之助などがいました。帯同したフランス軍事顧問のジュール・ブリュネのもと軍制もフランス式に改められています。
函館戦争
函館戦争での本格的な戦いの前に、1869年3月には宮古湾海戦がありました。入港した新政府軍の軍艦「甲鉄」を奪取しようと旧幕府軍「回天」「蟠竜」「高雄」が宮古湾に侵入する作戦でしたが、暴風雨のために「蟠竜」「高雄」が離脱、作戦は失敗に終わりました。
新政府軍は4月9日、乙部に上陸し江差を奪います。旧幕府軍は有効な反撃ができず松前方面に撤退せざるを得ませんでした。新政府軍は、松前口、木古内口、二股口、安野路口の4つのルートから進軍を開始。旧幕府軍は各地で圧倒され、ついに函館まで後退せざるを得ませんでした。
5月に入る頃には、旧幕府軍の拠点は五稜郭とその周辺に限定されています。この情勢を受け、旧幕府に帯同していたブリュネらフランス軍人が5月2日に函館を脱出。5月11日の総攻撃では、函館山を抑えた新政府軍が山頂から市街地の旧幕府軍にむけ砲撃を行います。この戦いで新選組副長・土方歳三が戦死しました。榎本武揚は5月17日に降伏、翌5月18日に五稜郭を開城し戊辰戦争が終結しました。
戊辰戦争に関わりの深い人物
西郷隆盛(1827年〜1877年)
薩摩藩下級士族の出身で、島津斉彬に登用されて藩政に参画しました。安政の大獄で追われ1858年に奄美大島に、1862年に斉彬亡きあとの藩の実権を握る島津久光に嫌われ沖永良部島に流されます。戊辰戦争では新政府軍の大総督参謀となり、江戸無血開城を実現しました。明治後は参議となり廃藩置県などの政策を断行しますが、1873年の征韓論にやぶれ帰郷。1877年には西南戦争をおこし、城山にて戦死しました。
大村益次郎(1824年〜1869年)
長州藩の村役場付き医家の生まれで、オランダ医学と漢籍を学び、緒方洪庵の適塾では塾頭を勤めました。戊辰戦争では東征大総督府補佐として参加。とくに上野戦争以後の戦闘指揮に関わりました。明治後は軍制改革に活発な提案を行い、日本陸軍の父とも呼ばれています。藩兵の解散や徴兵制、帯刀禁止などについても献策したことから、1869年に反対派による襲撃を受け死亡しています。
勝海舟(1823年~1899年)
江戸時代末期から明治時代初期に活躍した幕臣、政治家。1860年には咸臨丸に乗り込みアメリカを見聞し、帰国後は幕政に参画。軍艦奉行として海軍操練所建設など海防政策を中心に尽力しました。戊辰戦争がはじまると幕府の軍事総裁となり、交戦派をしりぞけ、早期停戦と江戸無血開城を主張しこれを実現させています。明治後は政治家として、参議、海軍卿、枢密院の顧問官を歴任しました。
松平容保(1836年~1893年)
幕末を代表する大名、陸奥国会津藩第9代藩主。1862年に14代将軍・徳川家茂から招集され幕政に参与します。同年京都守護職につき、公武合体を推進するとともに京都の治安維持に尽力しました。大政奉還後は、奥羽越列藩同盟の中心となり新政府軍に抵抗しますが敗退。その後は身柄を鳥取藩、次いで和歌山藩に預けられます。1872年に罪を許され、のち東照宮宮司となっています。1893年12月に肺炎のため亡くなりました。
河井継之助(1827年~1868年)
幕末の長岡藩士で、20代後半から30代にかけて遊学を重ね、やがて藩主・牧野忠雅に認められ、藩政に抜擢されます。しかし上層部との折り合いが悪く2カ月で辞職。1865年に藩政に復帰すると家老として藩政改革を断行します。大政奉還後は武装した上での局外中立をめざしますが、小千谷での談判が決裂すると奥羽越列藩同盟に加わりました。新政府軍との戦闘中に負傷し8月16日に死去しました。
榎本武揚(1836年~1908年)
幕末・明治期の軍人・政治家。戊辰戦争では旧幕府軍を率いて函館・五稜郭を占領し、新政府軍と戦いました。翌1869年に降伏し投獄され、1872年に出獄しています。その後は北海道開拓に従事。1874年には特命全権公使としてロシアに駐留し、1875年には樺太千島交換条約を締結するなど外交面で活躍しました。逓信・農商務・文部・外務の各大臣を歴任し、1908年に死去しています。