コナン・ドイルとはどんな人?生涯・年表まとめ【代表作品や名言も紹介】

コナン・ドイルの簡単年表

1859年 – 0歳「アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル誕生」

歴史に名を残す未来の小説家の誕生

1859年5月22日、ドイル家の長男としてアーサー・イグナティウス・コナン・ドイルが誕生。コナンは名前ではなく姓であり、「コナン・ドイル」でひとつの姓になります。コナンという姓は大叔父であるマイケル・コナンが由来です。

ドイルの父チャールズの家系は祖父ジョン・ドイルをはじめとして芸術の才能に秀でており、母メアリーも英国王室につながる高貴な血筋の持ち主でした。しかし、祖父や叔父たちに与えられた才能はドイルの父にはなく幼いドイルは貧しい生活を強いられます。

ドイル家を支えた母メアリー

父親の収入が少ないため、母メアリーがドイル家を支えていました。ドイル家にはドイルを含めて9人の子どもがいましたがそのうち2人は早逝。ドイルと他の兄弟は貧しいながらも母メアリーの手によって育てられました。

当時のイギリスで女性が家庭を支えることは非常に難しいことでしたが、メアリーは毎日働いて子どもの面倒をみます。そんな日々の中でメアリーは長男のドイルに騎士道精神*溢れる祖先の話を言い聞かせていました。

騎士道精神はドイルの心に強く根付いている

由緒ある血筋であることが彼女に自信を与え、辛い毎日を乗り越えさせたのです。「騎士のように強くなるように」と母からスパルタ式に教育されたドイルは、その後心の強い愛国主義者へと成長しました。

*騎士道精神
騎士が行うべき行動や習慣などを総称したもの。武勇や弱者の守護、主君への忠誠などがあり、近代における英国紳士の行動模範に影響した。

1868年 – 9歳「イエズス会系の学校に入学」

ストーニーハースト・カレッジ
出典:Wikipedia

9歳になるとドイルはイエズス会系の学校に入学。その後、上級学校であるストーニーハースト・カレッジに進学しました。

家庭でもスパルタ式の教育を受けていたドイルでしたが、学校ではそれ以上に厳格な生活を強いられます。長いお祈りや修道士の監視、体罰も日常的に行われていました。

オリバー・ウェンデル・ホームズ
出典:Wikipedia

こうした厳しい教育によって、ドイルはさらに逞しい精神力を得ます。在学中はスポーツを精力的に取り組み、ドイツ語を学ぶために西オーストリアへ留学もしました。

また、ドイルはこの頃から数多くの本を読んでいます。特にアメリカ人作家オリバー・ウェンデル・ホームズやアイルランド人作家兼猟師であるメイン・リードなどの小説を好んでいました。

1876年 – 17歳「エディンバラ大学医学部に入学」

ドイルは17歳で医師を目指してエディンバラ大学の医学部に入学します。ここでホームズのモデルとなったベル教授と出会い、ドイルの頭の中に「シャーロック・ホームズ」という探偵の姿が浮かび上がりました。

ドイルにとって大学の履修科目は大半がつまらないものでしたが、ベル教授の手伝いや船医として同乗した捕鯨船の旅は大きな影響を与えたのです。

1881年 – 22歳「エジンバラ大学医学部を卒業」

大学卒業時のコナン・ドイル
出典:The Arthur Conan Doyle Encyclopedia

22歳でエディンバラ大学を卒業したコナン・ドイル。病院に勤務するのではなく船会社に就職し、アフリカ行きの船に船医として同乗しました。

しかし、捕鯨船の時のような楽しみはなくマラリア*の流行や自身の感染など地獄のような苦しみを味わいます。下船後は船会社を退職。悪友と共同経営の診療所を始めるも上手くいかず、すぐにやめてしまいました。

*マラリア
ハマダラカという蚊によって媒介される感染症。

1882年 – 23歳「医師として個人開業」

共同経営に懲りたドイルは幼い弟イネスとともにイギリス南部の都市で家を借りて個人開業を始めます。その街は医師がたくさんいる地域だったため、患者はあまり来ませんでした。

そのため、ドイルは小説を書いたり散歩するなどしてのんびりと毎日を過ごします。しかし、1885年の春に転機が訪れました。患者の姉に恋をしたのです。それがドイルの最初の妻ルイーズ・ホーキンズでした。

優しいルイーズに心を奪われたドイルはその夏に彼女と結婚します。そして、患者を待ちつつも小説の執筆を続けたのでした。

1886年 – 27歳「『緋色の研究』を執筆」

ホームズとワトソンの対面
出典:Wikiwand

いくつか短編小説を書いていたドイルでしたが短編小説では自分の名前が掲載されなかったため、今度は長編小説を執筆し始めます。

1本の長編小説を書いた後、1886年に1ヶ月かけて長編小説『緋色の研究』を執筆しました。名探偵シャーロック・ホームズが世の中に初めて登場した記念すべき一冊です。

当初は出版してくれる会社がなかなか見つからず、単行本化も翌年までのびてしまいました。しかし、その後に歴史小説『マイカ・クラーク』『白衣の騎士団』やホームズ長編小説の2作目『四つの署名』を出版。売れ行きもよく、ドイルは小説家としての地位を築きました。

医師よりも小説家として生きていくことを決意したドイル。診療所を閉鎖して小説家として本格的に執筆活動を始めます。

ホームズとワトソン(『ボヘミアの醜聞』の挿絵)
出典:Wikipedia

大衆向け雑誌ストランド・マガジンにてホームズの短編の連載を開始。初めての短編小説『ボヘミアの醜聞』から12作品を書き上げ、1892年には12作品を集めた単行本が発売されます。

イギリス国民はシャーロック・ホームズの活躍に夢中になり、作者であるドイルのもとにはホームズ宛のファンレターが届くほどでした。

1893年 – 34歳「短編『最後の事件』を発表」

ホームズの宿敵モリアーティ教授
出典:Wikipedia

ホームズの短編小説12作品の連載後、ドイルは歴史小説『亡命者』を出版します。しかし、イギリスの人々はドイルの歴史小説よりもホームズが登場する推理小説を読みたがっていました。

ドイルはだんだんとホームズ人気が煩わしくなり、短編『最後の事件』によってホームズを殺してしまいます。

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