コナン・ドイルとは、19世紀末から20世紀に活躍したイギリス人作家であり医師です。稀代の名探偵「シャーロック・ホームズ」を生み出したほか、政治活動家や心霊主義者など多方面で活躍しました。
幅広い分野で活躍し続けたコナン・ドイル。
そんな彼の生涯とは一体どのようなものだったのでしょう?
この記事ではコナン・ドイルの功績や逸話、作品についてを5歳の時からシャーロック・ホームズに夢中になりドイルに関する本を多数読破している著者が紹介します!
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、岩野祐里(いわのゆり)。5歳の頃、イギリス史に夢中になり図書館へ通いながら育つ。大学では国際文化を専攻し、イギリス史と英文学の研究に没頭。その後、大学院にて修士課程を修了。研究論文は「19世紀英国の社会と犯罪」について。歴史全般の研究歴は11年、イギリス史は21年に及ぶ。現在はWebライターとして活動中。
コナン・ドイルとはどんな人物か
名前 | サー・アーサー・イグナティウス・コナン・ドイル |
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誕生日 | 1859年5月22日 |
没日 | 1930年7月7日 |
生地 | エディンバラ(スコットランド) |
没地 | クロウバラ(イングランド) |
配偶者 | ルイーズ(1885年〜1906年)、ジーン(1907年〜1930年) |
埋葬場所 | クロウバラ(後にミンステッドに埋葬) |
コナン・ドイルの生涯をハイライト
コナン・ドイルは、1859年に父チャールズと母メアリーの長男として誕生しました。父は測量士*として働いましたが、依存症やうつ病で療養所へ入居せざる得なくなり、幼少期のドイルは貧しい環境で育ちます。
叔父の支援により寄宿学校へ入学したのちに、医師を志してエディンバラ大学へ進学。20代で医師として個人開業し、その傍らで小説を書き始めました。
1886年に長編小説『緋色の研究』でシャーロック・ホームを生み出し、1891年ごろには小説家として生計をたてるようになります。
月刊誌ストランド・マガジンでホームズの連載を始めると「ホームズ人気」は加速。ドイルはホームズを書き続けることになりました。しかし、あまりの忙しさと社会現象のような「ホームズ人気」にドイルは嫌気がさして作中で一度ホームズを死なせてしまいます。
読者からは大きな批判を呼びましたが、ドイルは歴史小説やSF小説を執筆に集中。第二次ボーア戦争*が起きると医師として従事し、イギリス軍を擁護する冊子を書くなどしてナイトの称号も得ました。
そして、ボーア戦争後に読者が待ち望んでいた「ホームズシリーズの復活」を決めて再びストランド・マガジンにて連載を始めます。連載の傍ら、2つの冤罪事件の解決に奔走したり第一次世界大戦下でイギリス政府に協力するなど精力的に働きました。
しかし、晩年は第一次世界大戦で家族を亡くした結果として心霊主義の活動を熱心に取り組むようになります。そして、1930年に家族に看取られながら71歳で亡くなりました。
医師から小説家へ
ドイルは16歳までイエズス会系の学校で学び、17歳でエディンバラ大学の医学部に進学します。大学を卒業後はアフリカ行きの船で船医をしたのちに、イングランド南部のポーツマス郊外で医師として開業しました。
患者を待つ傍らで小説を書いて過ごし、短編小説にて細々とした収入を得るようになります。そして、1886年に初長編小説『緋色の研究』を執筆し出版社に売り込んだのです。これが、シャーロック・ホームズシリーズの始まりでした。
『緋色の研究』は数年後に話題を呼び、次に出版した歴史小説や『四つの署名』もイギリスとアメリカで大きな評価を得ます。やがてドイルは「医師ではなく小説家として生きていこう」と決意しました。
その時の様子をドイルはのちにこう語っています。
せっかく文学で得た金を、ウィンポール街などで眼科医院を開業して浪費するのは愚ではないか。そこでもやい綱を切りはなち、書くことにわが生涯を託そうという考えが浮かび、狂喜してそう決心した。今でも覚えているがそのとき私は、ベッドの上掛のうえにおいてあったハンカチを弱りきった手でつかみ、うれしさのあまり天井へ投げあげたものである。これでついに自主的になれるのだ。
『わが思い出と冒険』延原謙訳
こうして、医師コナン・ドイルから小説家コナン・ドイルとしての人生が始まりました。
様々な政治思想の持ち主
コナン・ドイルは様々な政治思想を持つ政治活動家でおり、強い愛国主義者としても知られています。
第二次ボーア戦争勃発時には40歳ながらも医師団に所属し戦場へ赴き、第一次世界大戦ではイギリス全土に義勇軍を設立。自身も一兵士として参加し、前線の兵士たちへの演説などを行いました。
また、イギリス国内における弱者を救うために奮闘。「女性からの離婚申し立てを簡単にすることは不幸な人間を減らすことにもつながる」として、世間に離婚法改正の大切さを伝え続けます。
一方で、過激な婦人参政権運動には批判的であり20世紀初頭に活発化したサフラジェット*の活動には眉を顰めていました。ドイルにとって女性は「家庭内から政治的影響を与える存在」であり、「政治は男がするべきだ」と考えていたのです。
イギリス人として戦い弱者を助け、男が政治を行うべきだと考えることは当時の典型的なイギリス紳士の在り方でした。コナン・ドイルはまさにヴィクトリア朝におけるイギリス紳士のお手本だったのです。