無視された若槻内閣の不拡大方針
満州事変が起きた時、立憲民政党の第2次若槻内閣は関東軍の「自衛のため」という主張を認めざるを得ませんでした。しかし、事件がこれ以上拡大しないよう、「不拡大方針」を表明しました。大日本帝国憲法では内閣は軍の作戦行動を阻止できません。内閣にできるのは不拡大方針の表明だけだったでしょう。
若槻内閣が不拡大方針を表明した理由は、欧米との関係悪化を回避するためでした。若槻内閣の外相幣原喜重郎は対欧米協調外交(いわゆる幣原外交)を展開しており、「不拡大方針」を出すことで欧米との対立を回避しようとしたのです。
ところが、関東軍は内閣が出した「不拡大方針」を完全に無視。そればかりか、関東軍は植民地となっていた朝鮮の駐屯軍に援軍を要請するなど軍事行動を拡大させました。その後も、関東軍は内閣の方針に従いません。最終的に第2次若槻内閣は総辞職に追い込まれます。
満州事変の結果
張学良は満州から撤退
満州事変がおきた時、張学良は北平(現在の北京)に滞在していました。関東軍の軍事行動を知った張学良は、配下の軍に日本軍と戦わないよう命じます。これは、中国国民政府の意向に沿ったものでしたが、張学良が主戦派から「不抵抗将軍」とさげすまれる原因となりました。
満州事変後、張学良はヨーロッパに留学しましたが1934年に帰国します。帰国した張学良を国民政府は軍司令官の一人に任命。彼に共産党討伐を命じました。張学良は河北省にいた旧奉天軍閥の幹部を集め軍を再建します。そして、西安に赴き共産党軍と戦いました。
しかし、張学良は中国人同士で戦うのを止め、国民党と共産党は共同で日本と戦うべきだと考えます。そして、督戦にやってきた蒋介石を監禁。彼に共産党との和平を強いました。そのせいで、張学良は国民党に軟禁され、戦後も台湾で50年にわたり軟禁され続けました。
傀儡国家満州国の成立
張学良軍を排除し、満州を制圧した関東軍は清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政とする「満州国」の建国を宣言します。満州国は日本人・漢人・満州人・朝鮮人・蒙古人の「五族」が協力する「五族協和」により王道楽土の実現を目指す国とされました。
しかし、満州国の実権は日本人の手に握られていました。軍事面では関東軍が支配し、行政面でも日本人顧問に大きな権限が与えられていたからです。執政(のち、皇帝)の溥儀にしても、日本の同意なしに何事も進められない状態でした。その意味で、満州国は日本の「傀儡国家」といって差し支えないでしょう。
満州事変を起こした目的
満州の地下資源を手に入れる事
満州事変の1つ目の目的は豊富な地下資源を手に入れることでした。満州は日本本土の4倍に及ぶ広大な大地で、鉄鉱石や石炭など日本が喉から手が出るほど欲しかった鉱産資源に恵まれた土地でした。鉄鉱石と石炭があれば、船や鉄道、建築物の材料となる鉄鋼の生産が可能となります。
満州事変の以前から、日本は満州の撫順炭田や鞍山鉄山を支配していました。これに加え、他の地域で産出される鉄鉱石や石炭を手に入れることで日本は飛躍的に国力を強めることができます。実際、満州事変後に進出した日本企業によって満州の鉱産資源の開発が行われました。
張学良を排除する事
満州事変の2つ目の目的は張学良の排除です。張作霖爆殺事件の前、張学良は日本軍に対し協力的でした。しかし、父が関東軍によって爆殺されると、張学良は父の側近たちの支持を取り付け、父が君臨していた奉天軍閥を掌握します。
そして、張学良は中華民国に所属することを宣言。中華民国国旗である青天白日旗を掲げました。満州の直接支配をねらっていた関東軍としては当てが外れたことになります。さらに、張学良は満鉄の近くに平行線路を敷設。満鉄に価格競争を仕掛け、満鉄経営に打撃を与えました。
くわえて、張学良は満鉄付属地の周囲に柵をめぐらせ、満鉄付属地から持ち出される物品に税をかけます。関東軍は中華民国政府に抗議します。しかし、張学良の支配地に口を出せない中華民国はなんら具体的な動きを見せませんでした。関東軍がことごとく邪魔してくる張学良を排除したいと考えても不思議はありません。
満州事変と日中戦争の違い
満州事変と日中戦争にはいくつかの違いがあります。1つ目は軍事的な違いです。満州事変において、関東軍はほとんど戦闘することなく満州を制圧しました。日中戦争では1937年から終戦の1945年までずっと戦争が継続します。
2つ目は戦争の発端となった事件です。満州事変の発端となったのは柳条湖事件で、日中戦争の発端となったのは盧溝橋事件でした。
3つ目は中国の状態の違いです。満州事変の時、中国本土では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党が激しく戦う国共内戦の状態でした。しかも、満州は張学良が支配していたので国民党が介入しにくい状態です。一方、日中戦争の時は開戦直前に国民党と共産党が「抗日民族統一戦線」を樹立し、ともに日本と戦う状態でした。