軍の暴走を止められなくなった
青年将校の動きが活発化
満州事変は陸海軍の青年将校の動きを活発化させます。もともと、満州事変発生の以前から、青年将校たちは独自の動きを見せ始めていました。1930年9月、橋本欣五郎中佐らを発起人とする桜会が発足します。この会は政党政治の打破と軍部独裁による政治刷新(昭和維新)を目指しました。
桜会のメンバーは1930年3月に三月事件というクーデタ未遂事件を起こします。さらに、満州事変後の1930年10月には十月事件というクーデタ未遂事件を起こしました。こうした事件は内閣が軍部を抑え込もうとする意志を削ぐ働きをします。
満州事変後、桜会は力を失いますが軍が政治に介入する傾向がより強まります。さらに、満州国の承認に消極的だった犬養毅は五・一五事件で殺害されます。結果的に、満州事変とその後の満州国の建国は政党内閣に終止符を打つ役割を果たしたといえるでしょう。
内閣の方針を無視する前例ができた
満州事変は、現場の軍(この場合は関東軍)が内閣の方針を無視して行動してもよいという悪い前例となりました。大日本帝国憲法において、軍を指揮する「統帥権」は天皇にあるとされます。内閣は政治面で天皇を補佐しますが、軍に関しては軍の代表(陸海軍大臣や陸軍参謀総長、海軍軍令部長)が天皇を補佐します。
言い換えれば、内閣には軍を指揮する権限がありませんでした。軍はこの「統帥権の独立」を強く主張。時に内閣と緊張関係になります。とはいっても、それまでは軍があからさまに内閣の意向を無視することなどありませんでした。
しかし、満州事変では内閣が不拡大方針を出したにもかかわらず、現地の関東軍はこれを無視。しかも、隣接する朝鮮軍司令官の林銑十郎は勅命を待たずに軍を国外である満州に出動させるなど、現場指揮官の独断がまかり通ってしまいました。その意味で、満州事変は「軍部独裁」の条件をつくったのではないでしょうか。
満蒙開拓が実施された
満州事変後、日本は多くの移民を満州や内蒙古に送り込む「満蒙開拓」を実施します。満蒙開拓がはじまったのは満州国が建国された1932年でした。満蒙開拓の目的は2つあります。
1つは、昭和恐慌によって困窮した農民たちに新たな土地を与えて救済すること。もう一つは、ソ連国境付近に屯田兵として駐屯させ、ソ連の攻撃に備えさせることでした。
実施当初、反対意見もあったため派遣されたのは年平均3000人程度でした。しかし、二・二六事件以後、政治の主導権を軍が握ると、満蒙開拓は本格化。最終的に27万人以上が開拓団として移民しました。
1945年、ソ連軍が日ソ中立条約を破棄して満州国に攻め込むと、開拓団員の多くが戦死、自殺などに追い込まれます。また、生き残っても帰国できず長期間中国に滞在、あるいは中国でなくなる人も大勢いました。
満州事変の簡単年表
1905年 – 「ポーツマス条約で南満州鉄道鉄道を獲得」
ポーツマス条約は日露戦争の講和条約です。この条約で日本は樺太の南半分と遼東半島南部(旅順・大連などを含む関東州)の租借権、南満州鉄道の権利などを獲得しました。南満州鉄道株式会社は日本の満州進出に欠かせない重要な会社となります。
1919年 – 「関東軍を設置」
ポーツマス条約で獲得した関東州や南満州鉄道の沿線を警備する独立軍として関東軍が設置されました。関東軍はあくまでも警備が主体です。そのため、兵力は1万人程度でした。関東軍の規模は満州事変までかわりません。
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1928年 – 「張作霖爆殺事件」
関東軍参謀の河本大作大佐は満州を支配していた奉天軍閥の張作霖を謀殺します。河本の目的は張作霖を排除することで日本が満州を支配することでした。事件後、田中義一首相は昭和天皇に首謀者を厳罰に処すと報告します。
しかし、陸軍が田中の方針に強く反発。厳罰方針を撤回し、昭和天皇に対し関東軍は張作霖爆殺事件と無関係だったと報告しました。これを聞いた昭和天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を詰問します。
さらに昭和天皇は侍従長の鈴木貫太郎に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」と述べたことに衝撃を受けた田中は総理大臣を辞職しました。張作霖の死後、奉天軍閥は息子の張学良に引き継がれ、張学良は中華民国への帰属を宣言します。
1931年 – 「満州事変の勃発」
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖でおきた南満州鉄道の線路爆破をきっかけに、関東軍が満州全土を制圧する満州事変が勃発しました。張学良は配下の軍に抵抗しないよう命じたため、大規模な戦いとなりません。そのため、関東軍はまたたくまに満州全土を制圧しました。
1932年 – 「満州国建国」
満州を制圧した関東軍は、東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)からなる「満州国」を樹立します。そのトップとなる執政として迎えられたのが清朝最後の皇帝溥儀でした。溥儀を執政とした理由は、清王朝の皇族が満州に住んでいた満州族だったからです。
関東軍は満州国を通じて満州を支配しました。国際社会は関東軍の行動を侵略戦争と認定。満州国を承認しません。日本政府も満州国の承認には慎重でした。しかし、最終的に斉藤実内閣が満州国を承認します。
1932年 – 「国際連盟脱退」
満州を奪われた中国の蒋介石は国際連盟に提訴します。これをうけ、国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とする調査団(リットン調査団)を派遣しました。調査後、日本の軍事行動は自衛と言えないとするリットン報告書が提出されます。
これを受け、国際連盟では日本に対し満州から撤退するよう勧告する決議案を採択、可決しました。日本全権代表の松岡洋右は代表団を率い、国際連盟の議場から退場。その後、日本は国際連盟から離脱します。
満州事変に関するまとめ
いかがでしたか?
満州事変は1931年におきた事件です。南満州鉄道を警備する関東軍は、奉天郊外の柳条湖付近で張学良配下の中国軍が鉄道線路を攻撃したとして反撃。満州全土を制圧します。
その後、関東軍は愛新覚羅溥儀を執政とする満州国を樹立しました。しかし、国際社会は満州事変を日本による侵略と判断します。日本はこれに反発し、国際連盟を離脱。国際的孤立を深めてしまいました。
読者の皆様が、満州事変に関し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。