満州事変とは何かわかりやすく解説!真実やきっかけも簡単に紹介

満州事変の中心人物

板垣征四郎

板垣征四郎
出典:板垣征四郎 – Wikipedia

板垣征四郎は1885年に岩手県で生まれました。祖父は南部藩に仕えた武士で、戊辰戦争での敗戦処理にあたります。彼が在学した盛岡中学出身者として、3学年上の米内光政、1学年上の金田一京助、1学年下の石川啄木がいます。

1904年に陸軍士官学校を卒業した板垣は少尉に任じられ歩兵第4連隊に配属されました。同年12月には彼自身が日露戦争に参加します。1921年には歩兵第47連隊の大隊長、1928年に歩兵大佐に昇進し、歩兵第33連隊の連隊長となるなど順調に出世。1929年に関東軍高級参謀として満州に赴任します。

関東軍の攻撃を受けた張学良軍の拠点「北大営」
出典:柳条湖事件 – Wikipedia

板垣は同じく関東軍参謀だった石原莞爾ら数名と満州事変の計画を練りました。1931年9月18日、柳条湖事件発生の知らせを受けた板垣は、満州の中心都市である奉天でその知らせを受け取り、直ちに配下の部隊に攻撃命令を下します。不意を突かれた張学良軍はさしたる抵抗もせず、奉天から撤退しました。板垣の攻撃命令が事実上、満州事変の口火を切ったといってよいでしょう。

満州事変後、板垣は少将に昇進。最終的に大将まで昇進しました。第二次世界大戦後、板垣は極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯に指定され、死刑判決が下されます。

石原莞爾

石原莞爾
出典:石原莞爾 – Wikipedia

石原莞爾は1889年に山形県に生まれます。子供のころから戦争ごっこをやっていたそうで、将来、陸軍大将になると話していました。1902年に仙台陸軍幼年学校に入学。その後、陸軍士官学校や陸軍大学校にも入学。これらを卒業後、ドイツ留学などを経て見聞を広めました。

石原といえば「世界最終戦論」が有名です。この本の中で石原は欧米の過去の戦史や現在の情勢を踏まえ、世界はヨーロッパ、アメリカ、ソ連、東亜の4勢力による決戦となるだろうと指摘。日本をリーダーとする東亜が勝利するには、さらなる国力増加とそのための満蒙領有が必要だと主張しました。

1928年10月、石原は関東軍の作戦主任参謀に任命されます。関東軍に入った石原は板垣征四郎や花谷正らと極秘裏に満州制圧作戦を立案しました。そして、計画通り満州を制圧しました。当初、石原は満州の直接領有を考えていましたが、最終的に溥儀を執政とする満州国樹立に同意します。

石原莞爾と対立していた東条英機
出典:東條英機 – Wikipedia

戦後、石原も東京裁判で戦犯指定を受けそうになりました。しかし、満州事変後は一貫して不拡大方針を主張したことや、東条英機と対立していたこともあり、戦犯指定を免れます。そして、終戦から4年後の1949年に肺炎で亡くなりました。

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満州事変が与えた影響

日本が国際的に孤立した

ワシントン体制の崩壊

ワシントン体制を作り上げたアメリカ大統領ハーディング
出典:ウォレン・ハーディング – Wikipedia

第一次次世界大戦後、日本やアメリカ、イギリス、フランスは九カ国条約や四カ国条約を結びます。これらの条約によってつくられたアジア・太平洋の秩序をワシントン体制といいました。ワシントン体制の目的は日本の勢力拡大をアメリカ、イギリスで抑制するものです。

九カ国条約も四カ国条約も、ヴェルサイユ条約締結後の国境線を維持することを基本としていました。日本が起こした満州事変はワシントン体制に対する挑戦でもあったのです。結局、国際連盟での撤退決議やアメリカからの圧力を受けても日本は中国進出を辞めませんでした。その意味で、満州事変はアメリカ中心のワシントン体制を崩壊させた出来事だといえるでしょう。

国際連盟の脱退

満州事変後、日本は国際連盟から脱退しました。その理由は国際連盟が日本の行動を侵略とみなし、日本軍の満州からの撤退を求める決議案を採択・可決したからです。国際連盟がこのような決議をしたのは、中国の蒋介石が日本の行動を侵略だとして国際連盟に提訴したからでした。

リットン調査団による現場調査
出典:リットン調査団 – Wikipedia

国際連盟はイギリスのリットン卿を団長とする調査団を満州に派遣します。派遣されたリットン調査団は1932年10月に報告書を国際連盟に提出しました。その内容は満州における日本の特殊権益を認めつつも、満州事変を侵略行為だと認定するものです。

国際連盟脱退を報じた新聞記事
出典:松岡洋右 – Wikipedia

1933年2月、国際連盟はリットン調査団の報告をもとに日本軍の満州撤退を勧告する決議案を採択しました。結果は賛成42、反対1(日本)、棄権1(シャム)となり、決議案は可決されます。これに対し、日本全権の松岡洋右は日本代表団を引き連れ国際連盟の議場を退出。同年中に日本は国際連盟を脱退し、国際的孤立が深まりました。

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