江戸幕府15代将軍を一覧で紹介!覚え方や各将軍がやったことも解説

四代:徳川家綱

徳川家綱(1641〜1680)
出典:wikipedia

徳川家綱は三代目徳川家光の長男で、母は側室の宝樹院です。1651年に四代目将軍となると、由比正雪ら牢人が幕府転覆を計画した慶安の変が起きます。しかし叔父の会津藩主である保科正之や酒井忠勝・松平信綱など家光を支えていた遺老が補佐することで、政情不安は取り除かれました。末期養子の禁緩和や殉死の禁止などが定められ、主従関係は世代を超えて継承するものとなります。

江戸の火事としては歴史的にも最大規模だった明暦の大火では、江戸城も天守閣など多くが焼け落ちた。
出典:wikipedia

家綱の時代に武断政治から文治政治へと体制を転換できたことが、江戸幕府が長期政権となるきっかけとなりました。しかし、1657年に江戸で起きた明暦の大火は、10万人を超える死者を出しただけではなく、復興にも莫大な金額がかかり、過去3代の将軍が残した遺産を多く費やした時代でもありました。

五代:徳川綱吉

徳川綱吉(1646〜1709)
出典:wikipedia

徳川綱吉は三代目徳川家光の四男で、母は側室の桂昌院です。上野国館林藩主でしたが、兄の家綱に後継ぎがいなかったことから養子となり、1680年に将軍職を継ぎました。大老堀田正俊の補佐のもと、治世の前半は天和(てんな)の治と呼ばれる文治政治を推し進めます。父家光の教えで儒学を好んだ綱吉は、忠孝と礼儀を重んじました。

生類憐みの令に伴って設けられた犬の保護施設「お囲い御用屋敷」跡(東京都中野区中野)
出典:wikipedia

堀田の死後は側用人を重用するようになり、柳沢吉保が権勢を握るようになると、のちに悪政と呼ばれる政治が行われました。父母親族が他界した際の忌引き日数などを決めた服忌令や生類憐みの令を出すことで、現代の私たちが抱く、人の死や血を穢れとみなす意識が広まるようになります。幕府の財政状況が悪化し始めるのは綱吉の時代です。

dog 徳川綱吉とはどんな人?生涯・歴史年表まとめ【性格や身長・死因も紹介】

六代:徳川家宣

徳川家宣(1662〜1712)
出典:wikipedia

徳川家宣は、三代目徳川家光の三男であった甲斐甲府藩主徳川綱重の長男で、側室の長昌院が出産しました。叔父の五代将軍綱吉の養子となり1709年に六代目将軍となります。柳沢吉保ら綱吉時代の遺臣を退け、新井白石や間部詮房を登用して文治政治を行いました。

朝鮮通信使は朝鮮国王が徳川将軍の代替わりの時などに派遣した使節団
出典:文化遺産オンライン

治世は3年ほどと短いものでしたが、悪法と言われた生類憐みの令の廃止、皇統の確保のため閑院宮家を創設、朝鮮通信使の待遇を改善、財政改革など、家宣は「正徳の治」と呼ばれる善政を敷いた将軍として知られています。

七代:徳川家継

徳川家継(1709〜1716)
出典:wikipedia

徳川家継は六代目徳川家宣の四男として側室の月光院が出産しました。兄たちが早世したために、1713年に5歳で七代将軍となります。新井白石や間部詮房に支えられ、父家宣の正徳の治を引き継ぎます。正徳金銀の鋳造や海舶互市新例の制定により財政再建にも積極的に取り組みましたが、家継は8歳という幼さで他界してしまいました。

正徳と享保に発行された金銀の品位を上げることで、貨幣流通量を押さえてインフレを解消しようとした。
出典:日本銀行金融研究所貨幣博物館

家継の死去により、秀忠から続いていた男系の血筋は途絶えました。そのため、御三家である尾張家の徳川継友と紀州家の徳川吉宗が後継者として挙がりましたが、大奥は吉宗を後継者に推挙しました。

1 2 3 4

コメントを残す