八代:徳川吉宗
徳川吉宗は徳川家康の孫にあたる紀州和歌山藩主・徳川光貞の四男として生まれました。母は側室の浄円院です。父や兄が次々に他界したために吉宗は1705年に藩主となり、厳しい財政状況にあった和歌山藩を改革により立て直します。家継の死去により吉宗は将軍後継者として推挙され、1716年に八代将軍に就任しました。
吉宗はデフレ政策を進めて支出を抑え、上米の制や定免法の採用により年貢収入を増やし、米価を調節することで、傾いていた幕府の財政再建を推し進めます。また、人口が増えていた江戸の都市政策や文教政策にも力を入れ、吉宗は江戸幕府中興の祖と呼ばれました。享保の改革は成功したものの、その分負担が増した百姓の不満が増加し、一揆が頻発するようになります。
【年表付】徳川吉宗とはどんな人?行なった改革やエピソード、妻も紹介
九代:徳川家重
徳川家重は八代目徳川吉宗の長男として側室の深徳院が出産しました。1745年に将軍職を継ぐものの、生来身体が弱く言語が不明瞭で、側用人大岡忠光のみがその言葉を理解できました。しかし暗愚な将軍だったわけではなく、田沼意次を抜擢したり「将棋考格」という著作を残すなど、その才能を評価する研究者もいます。
戦後に行われた増上寺の徳川家墓所の調査で、家重は非常に整った顔立ちをしていたことがわかっています。弟の宗武は田安家を、宗尹は一橋家を、息子の重好は清水家を興し、将軍後継者を出すことのできる御三卿が創設されました。
十代:徳川家治
徳川家治は九代目家重の長男で、側室の至心院を母に持ちます。祖父八代目吉宗の薫陶を受け、1760年に将軍職を継ぎました。父である家重の遺言で田沼意次を重用し、田沼時代と呼ばれます。基本的には享保の改革で実施された殖産興業政策を引き継ぎますが、民間の経済活動を活発化させたことが特徴です。
しかし株仲間を幅広い業種に拡大したことで賄賂が横行するようになり、家治の死去とともに田沼意次は失脚しました。
十一代:徳川家斉
徳川家斉は八代将軍徳川吉宗の孫にあたる徳川治済(はるさだ)の息子で、御三卿一橋家出身です。母は側室の慈徳院です。1786年に将軍に就任し、その補佐として田安家出身の陸奥白河藩主松平定信が老中首座となり、寛政の改革を行いました。天明の飢饉からの復興を第一とし、凶作に備えて米を備蓄する制度を設けたり、人足寄場など江戸の秩序回復にも力を注ぎました。
定信失脚後は家斉の側近である水野忠成が老中首座につきましたが、田沼時代末期のような賄賂が横行するようになります。家斉は子沢山の将軍としても知られ、50人以上の子供をもうけました。1837年に隠居後も大御所として実権を握りました。
十二代:徳川家慶
徳川家慶は十一代徳川家斉の次男で母は側室の香琳院です。1837年に将軍職を継ぎますが、父である家斉が存命中は大御所政治を行っていました。家斉亡き後は水野忠邦を老中首座として天保の改革を実施します。天保の飢饉により農村は疲弊し、世直し一揆が頻発しただけではなく、外国船の来航も増え、大御所政治時代の大奥での散財による財政難など問題山積の状況でした。
幕府権力を強化するために上知令を出すも、大名の反対にあい水野は失脚してしまいます。その後阿部正弘を起用し、アヘン戦争により対外危機が高まり、幕府としての対応を迫られる難局を乗り切ろうとしている矢先、1853年にペリーが来航します。家慶はその知らせを聞いた直後に亡くなりました。