十三代:徳川家定
徳川家定は十二代徳川家慶の四男です。母は側室の本寿院です。家慶には30人近い子供がいたものの、成人したのは家定だけであったため、1853年に将軍となりました。老中の阿部正弘は、押し寄せる諸外国との問題を雄藩大名と協調して対応するために、有力大名の一人であった薩摩藩島津斉彬の養女篤姫を家定の御台所に迎えます。
家定は病弱であったため、生前から将軍継嗣について問題となっていました。候補に上がっていたのは、紀州藩主の徳川慶福と、水戸藩出身の一橋慶喜でしたが、慶福(のちの家茂)を後継者とすることを決め、家定は35歳の若さで亡くなりました。
徳川家定とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や篤姫との関係も紹介】
十四代:徳川家茂
徳川家茂は紀州藩主徳川斉順(なりゆき)の次男で、側室の実成院が母です。斉順は十二代家慶の異母弟であったことから、将軍家に近い血筋ということもあり、家茂は1858年に将軍に就任しました。
同じ年に安政の五カ国条約が調印されましたが、勅許なく強行したことで幕府は批判に晒されます。
家茂を将軍に推していた大老の井伊直弼が、安政の大獄による反発から桜田門外の変で暗殺されると、老中の安藤信正は公武合体策により政局の安定を図ろうとしました。家茂はその具体策として、1862年に孝明天皇の妹である和宮を御台所に迎えます。しかし尊王攘夷派の勢いは増し、第二次長州征討で出陣中、家茂は大坂城で病に倒れます。享年21歳でした。
十五代:徳川慶喜
徳川慶喜は水戸藩主徳川斉昭の七男です。母は正室の貞芳院で、有栖川宮熾仁親王の娘です。1847年に一橋家を継ぎ、文久の改革では将軍後見職につきます。1866年、十四代家茂の死去により将軍に就任します。しかし幕府と朝廷の二元政治に限界を感じ、1867年に大政奉還を行い、政権を朝廷へ返上しました。徳川幕府は幕を閉じることになります。
はじめは新政府軍に抗戦の姿勢を見せていた慶喜でしたが、王政復古の大号令や鳥羽・伏見の戦いでの敗北により、慶喜は朝廷に対して恭順を決めます。明治時代は静岡で趣味三昧の日々を過ごしたのちに貴族院議員となりました。大正時代まで長生きをし、77歳で息を引き取りました。
徳川慶喜とはどんな人物?生涯・年表まとめ【大政奉還やその他功績、子孫や死因についても紹介】
江戸幕府の将軍15人の覚え方
替え歌で覚える
有名な「アルプス一万尺」の歌に合わせて江戸幕府15代将軍の名前を覚えていく方法です。単純なもので覚えやすく、とにかく将軍の名前だけをまず頭に入れたいという人にはおすすめです。
大河ドラマを見て覚える
1995年のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」には、五代綱吉から十代家治までが登場します。江戸幕府将軍の中でも名前が混乱しがちな中盤の将軍たちにスポットが当たっているので、とても参考になります。九代家重を演じた中村梅雀は、言葉が不明瞭ながらも知性に優れた人間性を表現して、松尾芸能賞優秀賞を受賞しました。
2000年放送のNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」では、初代家康、二代秀忠、三代家光の三人が主人公でした。家康を演じる津川雅彦と秀忠役の西田敏行の芸達者な掛け合いが素晴らしく、今も語り継がれる作品です。
幕末を描いた大河ドラマとしては最高視聴率を記録した2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」では、十二代家慶から十五代慶喜までが登場します。堺雅人が十三代家定を、松田翔太は十四代家茂を、愛すべきキャラクターに演じたこの作品のおかげで、若くして亡くなってしまい、影の薄かった二人の将軍の知名度も上がりました。
江戸幕府将軍に関するまとめ
江戸幕府が、徳川氏一族が率いる日本史上最長の政権を維持できたのは、15人それぞれの将軍が時代にあった役割を果たし、次の将軍へバトンを引き継いでいったからです。治世が短い将軍でも、将軍職についた意義がきちんとありました。
政権を返上した十五代目徳川慶喜ですが、慶喜が軍制改革を行い西洋兵学を取り入れたことで、大鳥圭介など幕府内でも近代軍制に精通した人物が育ち、明治時代への架け橋となりました。そういう意味で慶喜は江戸幕府最後の将軍ではあったものの、歴史を次の時代に引き継いだ人でした。
この記事を通して、江戸幕府を支えた将軍たち一人一人に対し、多くの人の関心が向くようになったら嬉しいです。