阿部正弘は、幕末の危機に日本を救った江戸幕府の老中です。アメリカの厳しい要求とややこしい国内政治との間に挟まれて悩みながらも、国内をさらに混乱させないために戦争を避け、自由な貿易を許さないという信念を貫き、日米和親条約を結びました。
また、藩や身分の枠を飛び越えて良い意見を取り入れようとしました。外様大名の島津斉彬や旗本の勝海舟、漁師のジョン万次郎など、正弘が取り立てた有能な人物たちは幕末の日本を動かす人物となっていきます。阿部正弘は日本の新時代の幕開けをした人物と言っても過言ではありません。
しかし阿部正弘は日米和親条約締結後まもなく亡くなってしまったため、その偉業はあまり知られていないのが実情です。彼が将来の日本のためにどのような布石を打っていたのか、この記事ではその短くも密度の濃い生涯を交えて迫っていきます。
この記事を書いた人
阿部正弘とはどんな人物か
名前 | 阿部正弘 (幼名は正一・剛蔵・主計、 字は叙道・叙卿、 号は裕軒・学聚軒) |
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誕生日 | 1819(文政2)年10月16日 |
没日 | 1857(安政4)年6月17日 |
生地 | 江戸西の丸下老中役宅 |
没地 | 江戸 |
配偶者 | 正室は謹子 (越前福井藩主松平治好の娘)、 継室は謐姫 (越前福井藩主松平春嶽の養女、 実父は糸魚川藩主松平直春) |
父 | 第5代備後福井藩主 阿部正精(まさきよ) |
埋葬場所 | 谷中霊園(東京都台東区) |
阿部正弘の生涯をハイライト
阿部正弘は幕末と呼ばれる江戸時代末期に老中として江戸幕府を支えた大名です。備後国福山藩(現在の広島県東部)の藩主でしたが、若くしてその才能を認められて出世し、27歳で老中首座という幕臣としては最高職にまで上りつめました。
老中として正弘はペリー来航に直面し、鎖国か開国かという究極の選択に迫られました。しかしアメリカとの戦争にだけは持ち込みたくないと考え、国は開くものの交易はしないという形だけの開国を取り決めた日米和親条約を締結しました。
また、列強に対抗するために安政の改革を行います。今までの幕閣独裁の政治ではなく、諸藩の意見はもとより身分は低くても才能ある者の声には耳を傾け、彼らを政治の表舞台へと引き立てました。そして積極的に西洋技術を取り入れ、海軍を作ろうと準備を進めます。しかしあまりの激務により患っていた癌が悪化し、正弘は老中の職に就いたまま亡くなりました。享年39歳でした。
正弘の安政の改革は、江戸幕府の築いてきた秩序を乱すものであり、ある意味では討幕へとつながる端緒を開いてしまったのかもしれません。しかしもっと広い視野で歴史を見れば、正弘は列強に飲み込まれることのない、独立国日本への道筋を作ってくれた恩人とも言えるのです。
人の話をよく聞く性格
阿部正弘は、自分の主張をするよりも人の意見をよく聞くように心掛けていました。なぜなら、老中という立場上、自分の意見を述べて失言をしてしまうと、それを言質に取られることで失策となってしまうからだとか。
正弘は肥満といってよいほど大きな身体をしていたらしく、色々な人の話を長い時間にわたってじっと聞き、立ち上がると汗で畳が湿っていたといいます。正座が苦手だったことも理由にあるようですが、そこまでして人の話に耳を傾けることができたというのは、ある種の才能と言えるでしょう。
熱心だった次世代を担う若者への教育
阿部正弘は「誠之館」という一般に開かれた藩校を設立したことでも知られています。今までの藩校では藩士教育を目的にしていましたが、誠之館では身分を問わず学ぶことができました。また、漢学以外にも医学や洋学、数学を教えたほか、試験制度を取り入れたことでも画期的な学校でした。正弘は財政状況の悪い中でも誠之館のために藩のお金を多く使っています。
正弘は教育に関しては惜しみなく費用を注ぎ込んだ人でした。榎本武揚は1862年にオランダへ留学していますが、彼は正弘の海軍創設という目的のために発注した、軍艦引き渡しを兼ねて選ばれた留学生の一人でした。これは正弘の死後のことですが、榎本はこの留学で得た知識を明治政府で役立て、新時代の日本を作る礎となったのです。