太平洋戦争をわかりやすく解説!原因や死者数、終戦までを年表付きで紹介

経済的な面で日本は困窮していた

侵略国の隔離を演説したルーズベルト大統領

日本は1930年代から行われたABCD包囲網と呼ばれる経済制裁により、経済状態が非常に困窮していました。1937年に盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争が勃発したのを契機に、資源確保のため仏領インドシナやビルマ(現在のミャンマー)を攻撃し支配下に置きました。

アメリカは反発し、日本に対して石油の輸出禁止などの経済制裁をイギリス・中国・オランダと行い、日本経済は困窮していきました。そのため経済制裁を主導するアメリカに対しての反感が日本側で強まっていったのです。

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アメリカの強硬な姿勢への反発

近衛文麿内閣は当初話し合いで解決しようとした

当初は日本も穏便に経済制裁を解いてもらおうと、当時内閣だった近衛文麿がアメリカのルーズベルト大統領と昭和天皇の会談を開き、事態の収束を目指しますが失敗しています。

コーデル・ハル国務長官と日本大使の写真

さらにアメリカは日本への経済制裁を解除する条件として、“ハル・ノート”と呼ばれる覚書を提示しています、内容は、

  • 四原則の無条件承認
  • 支那及仏印よりの全面撤兵
  • 国民政府(汪兆銘政権)の否認
  • 三国同盟の空文化
Wikipedia

要するに満州国を解体すること、仏領インドシナ(ベトナムなど)から軍を撤退すること、日本が中国から全面撤退すること、日独伊三国同盟を破棄することを要求したのです。アメリカはこの条件を飲むならば初めて交渉を始めても良いというスタンスでした。これらの条件は日本としては到底受け入れがたく、1941年12月1日の御前会議で対米英蘭開戦が決定することとなったのです。

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太平洋戦争の目的は?

国家総動員の戦争へと突入することとなった

客観的に見て無謀といえる太平洋戦争ですが、実は日本側も重々承知でした。しかし戦争をせざるえない方向へ操作され、戦争を開戦しています。日本にとって太平洋戦争の目的は何だったのか?解説します。

日本の狙いは“石油”だった

1941年にサイパンを行軍する日本軍

日本は太平洋戦争での目的の一つは、南アジアの石油や天然ゴムなどの天然資源の獲得でした。アメリカが行った経済制裁は石油などの燃料や鉄を日本に輸出しないというものであり、日本にとってそれは死活問題でした。

アメリカからの資源輸入が無くなると、当時日中戦争をしていた日本は戦争を続行できなくなってしまいます。そのために日本が目を付けたのが、ベトナムのサイゴンでした。日本はサイゴンに軍を送り込みます。

ベトナムのサイゴンは日本にとってアジアへの進出の足がかりとなる場だった

しかしサイゴンは、アメリカ領のフィリピンやイギリス領のシンガポール、オランダ領インドネシアを攻撃出来る場所だったために米英蘭は激しい反発を招く結果となりました。

大東亜共栄圏を築こうとした

大東亜会議に出席した首脳たち(真ん中が東條英機

日本の戦争の建前は、大東亜共栄圏を築くというものでした。東條英機内閣による基本方針は、「帝国を核心とする道義に基づく共存共栄の秩序と確立」を目的としたのです。要するに植民地支配を受けているアジアの国々を解放し、日本を中心とした共存の体制を作りたいと打ち出したのです。

しかしこれはあくまで建前で実質は、東アジアへの日本の軍事的・経済的・政治的な支配を正当化がしたものと解釈されています。大東亜共栄圏を築くという名目で日本は終戦まで、大東亜省を設置してます。そして1943年には大東亜会議を開き、アジア諸国の代表を招き“大東亜を米英の足枷から解放する”という共同宣言を発表しています。

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太平洋戦争の主な戦いは?

日本が誇った戦艦大和も太平洋戦争の戦闘で沈没した

太平洋戦争で米英と戦い、日本が戦争に負けたという事実は知っていても、実際どのような戦いが繰り広げられたのかを知っている人は少ないでしょう。太平洋戦争は非常に多くの戦いがありますが、その中で大きな節目となった戦闘を5つ紹介します。

開戦のきっかけとなった真珠湾攻撃

真珠湾上空を旋回する零型戦闘機

日本軍によって12月8日に、ハワイ島の真珠湾へ奇襲攻撃をしかけた戦闘です。真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の艦隊と基地に対して攻撃しました。この攻撃によりアメリカ太平洋艦隊部隊は一時的に戦闘能力を完全に喪失し、アメリカ軍艦隊に大打撃を与えています。

この時日本側は重要文書を大使本人が英文でタイプしたことにより手間取り、渡ったのが真珠湾攻撃をした後となってしまいました。

日本の宣戦布告書に署名するルーズベルト大統領

また同日にイギリスに対して、駐日大使にアメリカと同じ文書を手渡しています。この時に日本軍はマレー半島に攻撃を仕掛けた後で、これも事後報告となってしまいました。結果英米に対して不意打ちをしたこととなり、現在まで日本が批判される最悪の宣戦布告となってしまったのです。

太平洋戦争の戦局が大きく決まったミッドウェー海戦

B17の攻撃を回避行動中の戦艦飛龍

1942年の6月5日から6月7日までにミッドウェー島付近で行われた海戦です。太平洋戦争の戦局を決定づけた日本にとって手痛い敗戦となった戦いでした。

今まで連勝していた日本が、撤退を余儀なくされました。ミッドウェー島攻略を目指す日本海軍にアメリカ海軍が迎え撃ち、日本海軍機動部隊とアメリカ海軍機動部隊との航空戦の結果、日本軍は空母4隻と搭載機約290機を失っています。

炎上するミッドウェー基地

海戦前、日本は英国東洋艦隊を全滅させ、マレー・フィリピン・シンガポールなど次々に勢力下に収めています。しかしこの頃にはアメリカに日本の暗号は解読されるようになり、日本がミッドウェーに戦力を集結させることを読まれていました。

そのため日本軍に敵艦隊が不意をついて攻撃を仕掛け、結果日本は主力空母を4隻も失ってしまい、工業力で劣る日本は終戦まで痛手を克服することはできませんでした。そして日本が目論んでいた太平洋全域の制海権を掌握し、アメリカと講和を結ぶというシナリオは、この時完全に失われてしまうこととなってしまったのです。

多くの犠牲者を出したガダルカナル島の戦い

ガダルカナル島に上陸するアメリカ軍

1942年ミッドウェー海戦と共に、日本にとって太平洋戦争で攻守の転換点となる戦いとなりました。日本は消耗戦により、戦死者だけでなく餓死者を多く出し、軍の設備も多く失っています。

壊滅した日本部隊

8月から始まった戦闘は4か月続きましたが、日本軍の武器の不十分や食料不足も重なり壊滅状態となりました。12月に継続した戦闘は不可能と判断され、兵士たちの撤退が始まっています。しかしその頃には栄養状態の悪化や病気のための動けない兵士が多数おり、自決させたり処分が大規模に行われていたといいます。そして兵士たちの間で、ある生命判断が流行ったそうです。それは、

立つことの出来る人間は、寿命30日間。身体を起して座れる人間は、3週間。寝たきり起きれない人間は、1週間。寝たまま小便をするものは、3日間。もの言わなくなったものは、2日間。まばたきしなくなったものは、明日。

というものでした。深刻な食糧不足は撤退時にはピークに達し、カニバリズム(人肉食)まで行われたといいます。

日本兵の間でガダルカナル島は“餓島”と呼んだ

島にいた約3万人の日本兵のうち、帰還できた兵士は約1万人。戦死した約2万人の内訳は、直接の戦死者は5千人、餓死や病死が1万5千人という酷い惨状だったといいます。対してアメリカ側の戦死者は約7千人、負傷者は約7千人でした。

壮絶なゲリラ戦を繰り広げた硫黄島の戦い

硫黄島に星条旗を掲げるアメリカ軍

1945年の2月から3月にかけて、東京都・小笠原諸島の硫黄島で行われた日米の戦闘です。この戦いは最終的に硫黄島は占拠されたものの、日本兵よりもアメリカ兵の方が死傷者の多い戦闘となりました。

1944年にグアム島を制圧したアメリカは、日本本土を攻撃するために飛行場がある硫黄島を狙っていました。理由は幾つかありますが一番大きな理由は、本土空襲のために中間休憩地点として利用するためだったといいます。

戦闘の様子

日本軍は約2万3千人で米軍を迎え撃っています。硫黄島の戦いは指揮官の栗林司令官が兵士への“萬歳突撃”と“自決”を許さず、徹底したゲリラ戦闘を指揮した戦いでした。そのためにアメリカは予定よりも長く戦闘を強いられています。

硫黄島の星条旗の記念碑

しかし人員と物量に勝るアメリカ軍に押され、奮闘の末に2月23日に摺鉢山に星条旗が掲げられました。しかしその後も日本軍は抵抗を続け、星条旗を日章旗に変えたりと抵抗を続けています。

そして3月25日に栗林大将は最後の反攻を開始。最後も栗林大将が絶対許さなかった萬歳突撃ではなく夜襲し、アメリカ軍に多くの損害を及ぼしました。そして栗林大将の自決による死によって、硫黄島の戦いは終結したことになっています。しかし生き残った日本兵は、終戦や終戦後も潜伏し戦い続けていました。

日本で本土決戦の戦場となった沖縄戦

シーサー像の影で戦うアメリカ兵

沖縄戦は1945年の3月から6月までおよそ3か月間、日本軍と米英の連合国との間で行われた戦闘です。日本側は民間人を含めて約11万人、対して連合国側は約54万人でした。沖縄戦は軍事司令部が消滅した6月23日で終結したことになっていますが、生き残った日本兵は敗戦まで抵抗を続けました。

アメリカは日本を完全に占拠する足がかりとして、沖縄に白羽の矢を立てました。日本側は沖縄戦が絶対的な勝利を見せて少しでも有利に講和したいという思惑があったといわれています。

日本軍が潜む洞窟に火炎放射器を浴びせるアメリカ兵

沖縄戦では日本軍の犠牲者は約9万人、対して連合国側の被害は約2万人でした。そして沖縄民間人の犠牲者が約9万人と、兵士と同じくらいの犠牲が出た悲惨な戦いとなったのです。住民の中には集団自決したり、防空壕に逃げ込んだ人たちを連合国軍が火炎放射器や毒ガスで殺害されています。戦争という狂気により多くの人が犠牲になった、それが沖縄戦です。

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20 COMMENTS

ユイ

とても参考になりました!アリ(´・ω・)(´_ _)ガトウ!
太平洋戦争という戦争の名前は知っていましたが、こんなことがおきていたなんて、こんなに亡くなった方がいたなんて思いませんでした。

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匿名

記述にいいろいろ問題がある。今は時間が無いので後日改めて。
一つだけ今言わないと。戦死者数が間違い。
厳密性、論理性が欠如。
「戦死者」とは何か?
従軍して病死した軍人を含むのか?
どこまで含むのか?
従軍して事故で負傷してそれが原因で死んだ軍人を含むのか?
どこまで含むのか?
横井さん、小野田さんと行動して死んだ軍人を含むのか?

従軍して事故で死んだ軍人を含むのか?
対馬丸の死者は含むのか?内地なのか、外地なのか??
日本軍に協力してフィリピン沖で撃沈された民間船の死者は含むのか?
日本軍に協力してフィリピン沖で事故で沈んだ民間船の死者は含むのか?
特攻で事故で死んだ軍人を含むのか?
etc.
負傷してそれが原因で死んだ人をどこまで含むのか?
「日本軍」の「軍人」とは何か?
内地外地合わせてか?
「内地」「外地」とは何か?
台湾、朝鮮、中国、満洲国、etc.

日本国民間人死者は内地だけではない。

思いついたまま書いたので論理的な順序ではないが

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アライショウジロウ

用事があって途中でやめたが、勿論 問題は戦死者だけではない。
戦傷者(空襲被害者等を含む)、戦病者(精神病を含む)の問題。
それらの遺族の問題。その社会、国家、世界への影響。
問題はキリが無いが、一つ一つ真摯に向き合って分析して考えて
解決する努力をする 法的 又は 道義的 義務がある。

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匿名

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目玉焼きマン

参考にします。
〈訂正〉
230万人ではない気がします。(多分です間違っていたらすみません)

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匿名

太平洋戦争での死者数の文についてなんですが、
日本軍の軍人で230万人と記載されており、戦災死者数では「約」80万人と記載されていますが、ここでは比べるような表現をしてらっしゃるので「約」をつけるかつけないかでメリハリをつけ、統一性を持たせると良いと思います。しかし、もし77万人だとしたら約80万人と書かずに正直に77万人と書くと良いと思いました。

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オンドゥル語

オレァナンォタメニタタクテタンダヨ!オデノカラダハボドボドダ!ウゾダドンドコドーン!

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