性悪説をわかりやすく解説!正しい意味や性善説との違い、 荀子も紹介

性悪説を唱えた荀子とは?

『荀子』は中国の多くの知識人によって学ばれた
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性悪説を唱えた荀子とは、いったいどんな人物だったのでしょうか。学校の授業では名前だけを学んだという記憶がある人も入れば、はじめて聞いたという人もいるでしょう。ここでは、性悪説の提唱者、荀子について詳しく説明していきます。

孟子と同じ時代の儒学者

同時代の儒学者、孟子は孔子の思想の正当な後継者として高く評価されている
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荀子は、紀元前313年ごろに、趙(ちょう)の国に生まれた思想家です。しかし、幼少期の彼について詳細はあまりよく分かっておらず、歴史の表舞台に出てきたのは50歳を迎えてからでした。

同じ時代に、性善説を唱えた孟子がいます。と言っても70年ほど後に荀子が出てきたので、直接の接点はないでしょう。孟子と同じく孔子(こうし)を祖とする儒教を学んだ儒学者でしたが、荀子はその中でも異端児とされています。その理由は、師匠である孔子、そして孟子を含む他の儒学者たちの考え方を批判していたからでした。

例えば、孔子や孟子は、神によって人の運命や行動は決まると主張していたのに対し、荀子は人は人の手によって将来が導かれると主張していたのです。具体的にどんな方法がいいのかまでは、荀子は言及しませんでした。しかし、この異端児の思想は、のちの中国で別の学問の基礎となったのです。

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大器晩成型の人物だった

荀子のことを始め、古代中国の歴史をまとめた歴史家、司馬遷
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荀子が世に出てきたのは50歳を過ぎてからだと、司馬遷(しばせん)が編纂した『史記』には書かれています。それまでの彼が何をしていたのかは不明ですが、50歳にして斉(さい)の国へ遊学し、そこで当時の王であった襄王(じょうおう)に気に入られて、学者たちのトップに立っています。それだけの学識が荀子にはあったのです。

のちに斉を去って、次は楚(そ)の国で県知事のような役職に就いたとされています。彼は、県知事職をやめてからも同じ場所に住み続け、そこで生涯を終えました。前半生に関してわかっていることの少ない荀子ですが、斉の襄王に気に入られる前から儒教を勉強しており、性悪説の考えをまとめていたのではないかと考えられます。

子孫は三国時代でも活躍?

荀子の子孫を自称した、三国時代の軍師、荀彧
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謎が多い思想家である荀子ですが、実はのちの時代に子孫を名乗る人物が登場し、中国の歴史に重要な役割を果たしています。その子孫徒は、三国時代に曹操(そうそう)に仕えた荀彧(じゅんいく)と荀攸(じゅんゆう)の従兄弟です。

この2人は曹操に仕えた軍師の中でも特に重要視されたことで有名です。戦いの作戦を練るだけでなく、国の統治方法や、主君である曹操の行き過ぎた発言や政策に対して意見をするなど、まさに名宰相の名にふさわしい活躍をしました。しかし、本当に彼らが荀子の子孫であったかどうかは定かではありません。この時代はさまざまな人がさまざまな十物の子孫を名乗っていました。そのため、荀彧・荀攸の2人が本当にその子孫なのかは、学者のあいだでも疑問視する声が高いのです。

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