天智天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【百人一首に選ばれた和歌も紹介】

天智天皇の功績

功績1「大化の改新の先駆けとなったこと」

乙巳の変、蘇我入鹿を暗殺している図
出典:Wikipedia

天智天皇は645年に蘇我入鹿を暗殺する「乙巳の変」を成功させ、大化の改新の先駆けとなりました。大化の改新と呼ばれる国家改革は、650年までの5年間を指しますが、広義では701年の大宝律令が出来るまでを表します。645年に日本で初めての元号「大化」が制定されました。

退位した皇極太上天皇と中臣鎌足が主導し、当時皇太子であった中大兄皇子と弟の大海人皇子が補佐して推進されたと考えられています。この改革で「日本」という国号と「天皇」という称号が使われるようになったといわれています。

日が昇る国なので「日本」という国号を定めたとに使者を送っている

そして豪族の土地や人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指しました。これは天智天皇の存命中には完成しませんでしたが、天武天皇や持統天皇に引き継がれ、701年には大宝律令を制定することとなりました。

功績2「日本で最初の水時計を作ったこと」

漏刻(水時計)が出来ることにより、日本にも時が刻まれることとなった
出典:Wikipedia

天智天皇が皇太子時代に、日本で最初の漏刻(水時計)を作ったといわれています。設置が681年の6月10日だったために現在も「時の記念日」とされています。それから少しずつ造設していったとみられ、飛鳥寺の西の水落遺跡に漏刻跡があります。

水落遺跡の水時計跡
出典:Wikipedia

774年の続日本書紀の記録に、陸奥国で「文書を送るときにいつ送ったか時刻を記入出来ないので水時計を設置してください」という申請があったために水時計を設置したという記録も残っています。このように各地で時間という概念が広まっていくきっかけを作ったことは、天智天皇の大きな功績の一つといえるでしょう。

功績3「日本最初の戸籍を作成したこと」

670年に日本で最古の戸籍が出来た

天智天皇は670年に日本で最古の戸籍「庚寅年籍」を作っています。中央集権国家を築くための公地公民制を実現するには戸籍が不可欠なものでした。

庚寅年籍により人民を地域により編成する作業が完成し、戸籍に基づく口分田(民衆へ一律で支給される農地)の配給が畿内で始められたといいます。令の戸籍を介して個別に人民を把握し、個別人身支配が始まったと考えられています。戸籍ができ税金を納入する、現在にも繋がる国家の仕組みが、天智天皇の時代に始まったのです。

戸籍を元に口分田を配給できるようになった

仕組みは天智天皇の死後も不具合が調整されていき、元の仕組みをアップデートさせて国は整備されていくこととなります。

天智天皇にまつわる逸話

逸話1「同母妹と関係を持っていたかもしれないこと」

飛鳥時代の皇后を描いた画、天智天皇は同母妹の間人皇后と関係を持っていた可能性がある
出典:人文研究見聞録

天智天皇と同母妹の間人皇女(孝徳天皇皇后)に「近親相姦疑惑」が噂されています。当時は異母兄妹の結婚は可能でしたが、同母兄妹の関係は古代でも禁忌でした。

根拠は夫の孝徳天皇を難波長柄豊碕宮に置いて天智天皇についていったことや、その時に孝徳天皇が詠んだ歌が日本書紀に残されていることです。

「金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか」

大事に飼っていた馬が奪われたという歌を詠んだ

訳は「鉗という逃げないように首にはめる木を付けて飼っていた馬。大事にしていたから、厩舎から引いて出しもしないというのに、私が飼っている馬を、他人が見つけて奪っていった」というもので、間人皇后に送ったといわれています。

覗き見るに暗に肉体関係も示唆しているといわれている

歌の「見る」とは肉体関係も示唆するものといわれ、天智天皇との浮気を示唆しているというものです。この歌は本当に孝徳天皇が作ったものか信憑性が疑われていますが、“火の無い所に煙は立たない”で世間は「浮気していた」と噂していたためこういった歌が伝わったことが考えられるということです。

逸話2「暗殺されたという噂もある」

扶桑略記、比叡山の高僧が記したといわれ、後の水鏡や愚管抄にも本の存在が記されている
出典:Wikipedia

昔からある噂ですが、天智天皇は暗殺されたという説があります。根拠は平安時代の私撰歴史書「扶桑略記」に、

「馬で山科に行ったが行方がしれない、履いていた沓(くつ)が落ちていた場所を陵としよう」

と記されているためです。天智天皇は山科に行って行方知れずになってしまい、探したが見つからず履いていた沓が見つかった場所を陵としたというのです。これはあくまで公的ではなく「私撰」の歴史書のためにあくまで都市伝説になってしまいますが、わざわざ書かれているために無視はできない内容となっています。

天武天皇によって暗殺されたのかもしれないといわれている

公的ではないので歴史が変わることはないでしょうが、「天武天皇に暗殺された?」など現在も論争が繰り広げられています。真実はわかりませんが、この記録だと大海人皇子と後嗣についてのやり取りも無かったことになってしまいます。

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