天智天皇とかかわりの深い人物
天智天皇を知るには、周りの関係が深い人物を理解すると歴史がわかりやすくなります。関わる人物もほとんどが近しい親戚であり、家系図を見ながら関係を整理することで更に飛鳥時代の歴史が面白くなります。
家系図を紹介
母:皇極天皇(第35代・第37代天皇)
天智天皇の父・舒明天皇(第34代天皇)の皇后で、夫の死後48歳で天皇となりました。子供に中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・間人皇后(孝徳天皇皇后)がいます。
在位中は蘇我氏を重んじていましたが、息子の中大兄皇子が中臣鎌足と乙巳の変を起こし蘇我入鹿を殺害すると、天皇は退位し弟の軽皇子(孝徳天皇)に位を譲っています。しかし655年に孝徳天皇が崩御すると再度即位し、斉明天皇となりました。
天皇ではあったものの、実権は皇太子である中大兄皇子が握っていたと考えられています。斉明天皇の在位時に、百済復興のために朝鮮に出兵することを決めます。しかし661年に出兵先の九州・朝倉(福岡県)で崩御しました。
叔父:孝徳天皇(第36代天皇)
天智天皇の叔父で、母皇極天皇の同母弟にあたります。天智天皇の同母妹の間人皇女を皇后としました。姉の皇極天皇の退位により即位し、中大兄皇子を皇太子とします。しかし姉の皇極天皇と同様、実権は中大兄皇子が握っていた説が有力です。
孝徳天皇は大阪の難波長柄豊碕宮を造設し都と定めました。しかし中大兄皇子は元の倭京に戻ることを求めますが天皇はこれを拒否。しかし中大兄皇子は弟の大海人皇子や母の皇極太上天皇、妹の間人皇后を連れて戻ってしまい、大半の臣下は中大兄皇子達に従ったといわれています。
これは中大兄皇子の力を示す結果となりました。天皇は気を落とし、翌年病気で崩御したといわれています。
妻:額田王
天智天皇の側室です。最初は弟の大海人皇子の妻でしたが、後に天智天皇の妻となりました。皇族であるといわれていますが、詳しい系図はわかっていません。一説によると、中大兄皇子と大海人皇子の仲違いの原因となったとも考えられています。
万葉集の代表歌人の一人でもあり、夫の死後に天智天皇を思う歌も万葉集に収録されています。天智天皇は額田王を奪ったために、代わりに自分の皇女を4人大海人皇子に嫁がせたといわれています。
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弟:天武天皇(第40代天皇)
天智天皇の弟で、天智の即位時は皇太弟となっていました。皇后は天智天皇の娘・鵜野讃良皇女(持統天皇)です。しかし天智天皇は即位後、弟の大海人皇子よりも息子の大友皇子を天皇にしたいと考えるようになったといわれています。
次第に兄弟仲は悪化したといわれていますが、天智天皇は危篤の際に大海人皇子を呼び、後嗣となるように言ったといいます。しかし大海人皇子はこれを辞退し、出家して吉野に下りました。しかし天智天皇の崩御後壬申の乱を起こし勝利し、天武天皇として即位しました。
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息子:弘文天皇(第39代天皇)
天智天皇の皇子で、後に壬申の乱で大海人皇子と争いました。大友皇子が即位にあたり少なからず反発があったのは、当時は皇族の母が産んだ皇子が天皇となることが慣例であり、大友皇子の母は伊賀宅子娘という地方豪族の娘だったからといわれています。
このことが後に壬申の乱が起こる布石となりました。日本書紀などには正式に即位したことになっていませんが、平安時代の私撰歴史書「扶桑略記」には翌日即位したと記されているそうです。天智天皇崩御の半年後に壬申の乱が勃発。大友皇子は敗れ、首を吊って自害したといいます。
結局歴代の天皇には数えられていませんでしたが、1870年(明治3年)に、弘文天皇と追贈され歴代の天皇に数えられることとなりました。