逸話3「実は暗君と評価されていた!?」
天智天皇の「天智」は良い意味ではないといわれています。明治時代に森鴎外が「帝謚考」で、この謚は殷の紂王の「天智玉」に由来すると考えたのです。殷の紂王は暴君の代名詞です。残虐な行為を繰り返し、最後は英雄の「武」によって国を滅ぼされています。
つまり紂王のような天智天皇が、武のような天武天皇に滅ぼされたという意味でつけられたと考えられるということです。「天智」という諡号は天皇の死後に付けられたものであり、暴君のために政権を奪われたという印象付けでつけられたのではという説が有力です。
天智天皇の生涯年表
626年 – 0歳「大和で誕生する」
626年に、父舒明天皇の第二皇子として誕生しました。母は宝王女(後の皇極天皇)で同母弟に大海人皇子(後の天武天皇)、異母兄に古人大兄皇子がいます。
名前の中大兄皇子は、“大兄”は王位継承権資格者に与えられる名前で、「中大兄」は2番目の大兄という意味だといいます。
倭姫王(やまとひめのおおきみ)と結婚
詳しい時期はわかりませんが、舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘、倭姫王と結婚しています。中大兄皇子にとっては、姪にあたる人物です。後に天皇に即位したときに、皇后となっています。
中臣鎌足と出会う
詳しい時期はわかりませんが中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の際に接近し、蘇我氏打倒を企てたといいます。出会いはドラマチックだったといい、飛鳥寺で蹴鞠があっていた時に中大兄皇子の沓が脱げてしまい、中臣鎌足がその沓を拾って渡したのがきっかけといわれています。二人は南淵請安の塾で周孔を学び、その往復の時に蘇我氏を打倒する密談を行ったそうです。
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645年 – 19歳「乙巳の変を起こす」
645年に蘇我入鹿を暗殺するクーデターを成功させます。新羅・百済・高句麗の使者が来たので三国の調の儀式を行う時に、蘇我入鹿を殺害しました。この時中大兄皇子が先頭を切り蘇我入鹿の切り付け、最終的に佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人が入鹿にとどめを刺したといいます。その後、父の蘇我蝦夷も自宅に火を放ち自害しました。
蘇我本家が滅亡した翌日には母・皇極天皇が譲位し、孝徳天皇が即位しました。中大兄皇子は皇太子に任命され、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を押し進めていきます。
改新の詔を発布する
646年に「改新の詔」と呼ばれる方針を発布しています。内容は大きく4つあり、
- 天皇直属や豪族所有の土地や人民を廃止し全て公のものとする公地公民制
- 初めて首都を定めこれまであった国を廃止し、令制国に改めるための整備
- 戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える班田収授法
- 公民に税や労役を負担させる制度(租・庸・調)
天皇中心の中央集権国家を目指すものでした。これらは実際始まるのは詔が発布された数年後で、色々紆余曲折もありましたが、天智天皇崩御後も方針は受け継がれ、令国家へと日本は変わっていったのでした。
653年 – 27歳「孝徳天皇を難波宮に残し倭京に戻る」
孝徳天皇は646年に難波宮に都を移しますが、中大兄皇子は反対し倭京に戻ることを提案。しかし孝徳天皇は聞き入れなかったために、中大兄皇子は勝手に倭京に移り、多くの群臣は中大兄皇子に付き従ったといいます。
それどころか孝徳天皇の皇后・間人皇女まで中大兄皇子についていき、天皇は失意の中、654年に難波宮で崩御しました。そのため655年に母・宝皇女が重祚し、飛鳥板葺宮で斉明天皇として即位しています。
孝徳天皇の皇子、有間皇子を処刑する
658年孝徳天皇の皇子、有間皇子が謀反を企てたという容疑で処刑されています。有間皇子は政争を避けるために心の病を装い牟婁の湯(現:和歌山の白浜温泉)で療養していましたが、飛鳥に戻ると蘇我赤兄と斉明天皇と中大兄皇子を打倒する計画を立てています。
しかし蘇我赤兄の密告により計画が露見。有間皇子は尋問の際に「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」と答えたといわれています。そして翌々日に絞首刑に処されました。