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天智天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【百人一首に選ばれた和歌も紹介】

「天智天皇ってどんな人なのかな?」
「歴史で習ったけど、どんなことをした人?」

天智天皇は飛鳥時代の第38代天皇です。中臣鎌足と共に蘇我氏を倒すクーデターを起こし、成功させたことが良く知られている人物です。飛鳥を代表する政治家であると同時に、文学的にも和歌が百人一首などに選出される文化人でもありました。

天智天皇、日本の発展に大きく後見した天皇だ
出典:Wikipedia

しかし歴史の授業で名前や功績を習っても、具体的にどんな人なのかを知らない人も多いのではないでしょうか。この記事ではそんな天智天皇を、里中満智子さんの作品「天上の虹」を読んで飛鳥時代が大好きな筆者が、政治面や文化面・都市伝説まで紹介していきます。

天智天皇(中大兄皇子)とはどんな人物か

名前天智天皇(中大兄皇子)
誕生日626年
没日672年1月7日
生地大和(奈良県)
没地近江大津宮(滋賀県)諸説あり
配偶者倭姫王、額田王など
子供大友皇子(弘文天皇)、
鵜野讃良皇女(持統天皇)など
埋葬場所山科陵(京都)

天智天皇の生涯をハイライト

天智天皇の肖像画
出典:ときたんく-天智天皇

天智天皇の生涯を簡単にダイジェストします。

  • 626年:父舒明天皇と母皇極天皇の皇子として誕生
  • 645年:クーデター(乙巳の変)を起こす
  • 同年:孝徳天皇即位、自らは皇太子となる
  • 646年:改新の詔を発布する
  • 660年:白村江の戦いで・新羅に敗れる
  • 667年:近江大津宮に遷都する
  • 668年:天皇に即位する
  • 670年:日本最古の戸籍「庚寅年籍」を作成
  • 671年:弟大海人皇子皇太弟辞退、大友皇子が皇太子となる
  • 同年:病気がちとなり大海人皇子に後事を託そうとする
  • 672年:46歳で崩御する

皇太子の立場で政治を行うスタイルだった

孝徳天皇、実際の実権は中大兄皇子が握っていたという
出典:Wikipedia

天智天皇の政治の特徴は、自らが天皇に即位せずに「皇太子」の立場で行っていたことです。乙巳の変後、母の皇極天皇が退位し後継者問題が出ますが、有力な皇位継承者であるにもかかわらず何故か位を望まず、叔父の孝徳天皇が即位し引き続き皇太子として政治を影から行っていました。

なぜ即位しなかったのかははっきりしたことはわかっていません。幾つかの説を挙げると、「弟大海人皇子への配慮」「豪族たちの抗争のため」「女性関係のため」といった憶測がありますが、どれも想像の域を出ません。結局自らが天皇として即位したのは、乙巳の変から23年後の事でした。

天智天皇の最期の様子と死因

天智天皇の同母弟の大海人皇子(後の天武天皇
出典:Wikipedia

天智天皇は672年に近江大津宮で病のため46歳で崩御したのが定説です。他には、暗殺説も囁かれていますが、都市伝説の域を出ないのが現状です。

日本書紀によると671年の9月に病に倒れ、10月に病状が悪化し重態となり弟の大海人皇子に後嗣を託そうとします。しかし大海人皇子は天智天皇の申し出を辞退、剃髪して僧侶となり吉野に下ったのでした。世間では「虎に翼をつけて放つようなものだ」と噂したといわれています。

壬申の乱の時に天武天皇が兜をかけたといわれる場所
出典:Wikipedia

その後672年1月7日に天智天皇崩御。その後半年間空位のまま、672年6月に大友皇子と大海人皇子が皇位を争う壬申の乱が起こり大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位することとなりました。

天智天皇の墓(天皇陵)はどこ?

山科陵
出典:Wikipedia

天智天皇の墓は、「御廟野古墳」と呼ばれる京都市山科区にある八角墳です。宮内庁によって「山科陵」と呼ばれ天皇陵の中でもほぼ「天智天皇陵」と呼んで間違いがない確実性の高い古墳といわれています。

飛鳥時代の天皇陵で被葬者がほぼ間違いないといわれているのは天智天皇陵と、天武天皇と持統天皇の合葬陵である「野口王墓」だけであるといわれています。7世紀から8世紀の古墳の特徴である八角墳の形状をしており、陵墓の立札の入り口には生前の功績に因んで日時計が設置されているそうです。

天智天皇の有名な和歌

万葉集にも収録されえている
出典:Wikipedia

天智天皇は日本を近代国家にしようと精力的に政治を営むと同時に、非常に文化人でもあり百人一首を含め、万葉集などにも和歌が残されています。今から天智天皇の代表的な和歌を紹介します。

百人一首に選ばれた和歌

百人一首での天智天皇の絵札
出典:usomukiの歴史解説ブログ

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我がころも手は 露にぬれつつ」

訳は「実りの秋の田にある番小屋に私は泊まっている、屋根を葺いた苫は粗く漏る露に私の袖はしとどに濡れてしまった」といったところでしょうか。百人一首の1首目という巻頭の歌でもあります。しかし実はこの歌は天智天皇が作ったものではないというのが有力です。

元々は万葉集の「読み人知らず」として似た歌が収録されていたのが、いつしか「天智天皇御作」としていわれるようになり、百人一首を選ぶときに藤原定家が天智天皇の歌として採ったのではないかといわれています。

確かに番小屋を天智天皇が訪れたとは考えづらい…

一般的には天皇が、農民の苦労を思いやって詠んだものと解釈されていました。そして百人一首の一番目になぜ選ばれたのかも色々な説がありますが、当初天武系だった皇統が天智系に移ったことに由来して、皇統の始祖たる「天智天皇」を冒頭に持ってきたのではないかという説が有力です。

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その他の有名和歌

香久山は神聖な山と崇められ、万葉集にもよく登場する
出典:Wikipedia

天智天皇は恋の歌を残しています。特に“香久山”から始まる歌は三角関係を大和の3つの山になぞらえているとされ、有名な歌の一つです。

  • 「香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を あらそうらしき」
  • 「妹があたり 継ぎても見むに 大和なる 大島の嶺に 家居らましを」
  • 「秋山の 樹の下隠り 行く水の 吾こそ勝らめ 思ほさむよは」

天智天皇とかかわりの深い人物

弟が娘の嫁だったりと家系図を見ないと混乱してしまいやすい

天智天皇を知るには、周りの関係が深い人物を理解すると歴史がわかりやすくなります。関わる人物もほとんどが近しい親戚であり、家系図を見ながら関係を整理することで更に飛鳥時代の歴史が面白くなります。

家系図を紹介

天智天皇の家系図
出典:Wikipedia

母:皇極天皇(第35代・第37代天皇)

皇極天皇、後に重祚(ちょうそ)して斉明天皇となった
出典:Wikipedia

天智天皇の父・舒明天皇(第34代天皇)の皇后で、夫の死後48歳で天皇となりました。子供に中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)・間人皇后(孝徳天皇皇后)がいます。

在位中は蘇我氏を重んじていましたが、息子の中大兄皇子が中臣鎌足と乙巳の変を起こし蘇我入鹿を殺害すると、天皇は退位し弟の軽皇子(孝徳天皇)に位を譲っています。しかし655年に孝徳天皇が崩御すると再度即位し、斉明天皇となりました。

福岡県朝倉市で崩御したといわれる
出典:Wikipedia

天皇ではあったものの、実権は皇太子である中大兄皇子が握っていたと考えられています。斉明天皇の在位時に、百済復興のために朝鮮に出兵することを決めます。しかし661年に出兵先の九州・朝倉(福岡県)で崩御しました。

叔父:孝徳天皇(第36代天皇)

孝徳天皇
出典:Wikipedia

天智天皇の叔父で、母皇極天皇の同母弟にあたります。天智天皇の同母妹の間人皇女を皇后としました。姉の皇極天皇の退位により即位し、中大兄皇子を皇太子とします。しかし姉の皇極天皇と同様、実権は中大兄皇子が握っていた説が有力です。

孝徳天皇は大阪の難波長柄豊碕宮を造設し都と定めました。しかし中大兄皇子は元の倭京に戻ることを求めますが天皇はこれを拒否。しかし中大兄皇子は弟の大海人皇子や母の皇極太上天皇、妹の間人皇后を連れて戻ってしまい、大半の臣下は中大兄皇子達に従ったといわれています。

飛鳥時代の皇后を描いた画、皇后は夫よりも兄について行ってしまった
出典:人文研究見聞録

これは中大兄皇子の力を示す結果となりました。天皇は気を落とし、翌年病気で崩御したといわれています。

妻:額田王

天智天皇の側室です。最初は弟の大海人皇子の妻でしたが、後に天智天皇の妻となりました。皇族であるといわれていますが、詳しい系図はわかっていません。一説によると、中大兄皇子と大海人皇子の仲違いの原因となったとも考えられています。

万葉集の代表歌人の一人でもあり、夫の死後に天智天皇を思う歌も万葉集に収録されています。天智天皇は額田王を奪ったために、代わりに自分の皇女を4人大海人皇子に嫁がせたといわれています。

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弟:天武天皇(第40代天皇)

天武天皇(大海人皇子)
出典:Wikipedia

天智天皇の弟で、天智の即位時は皇太弟となっていました。皇后は天智天皇の娘・鵜野讃良皇女(持統天皇)です。しかし天智天皇は即位後、弟の大海人皇子よりも息子の大友皇子を天皇にしたいと考えるようになったといわれています。

次第に兄弟仲は悪化したといわれていますが、天智天皇は危篤の際に大海人皇子を呼び、後嗣となるように言ったといいます。しかし大海人皇子はこれを辞退し、出家して吉野に下りました。しかし天智天皇の崩御後壬申の乱を起こし勝利し、天武天皇として即位しました。

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息子:弘文天皇(第39代天皇)

弘文天皇(大友皇子)
出典:Wikipedia

天智天皇の皇子で、後に壬申の乱で大海人皇子と争いました。大友皇子が即位にあたり少なからず反発があったのは、当時は皇族の母が産んだ皇子が天皇となることが慣例であり、大友皇子の母は伊賀宅子娘という地方豪族の娘だったからといわれています。

このことが後に壬申の乱が起こる布石となりました。日本書紀などには正式に即位したことになっていませんが、平安時代の私撰歴史書「扶桑略記」には翌日即位したと記されているそうです。天智天皇崩御の半年後に壬申の乱が勃発。大友皇子は敗れ、首を吊って自害したといいます。

弘文天皇陵とされる長等山前陵
出典:Wikipedia

結局歴代の天皇には数えられていませんでしたが、1870年(明治3年)に、弘文天皇と追贈され歴代の天皇に数えられることとなりました。

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