天智天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【百人一首に選ばれた和歌も紹介】

「天智天皇ってどんな人なのかな?」
「歴史で習ったけど、どんなことをした人?」

天智天皇は飛鳥時代の第38代天皇です。中臣鎌足と共に蘇我氏を倒すクーデターを起こし、成功させたことが良く知られている人物です。飛鳥を代表する政治家であると同時に、文学的にも和歌が百人一首などに選出される文化人でもありました。

天智天皇、日本の発展に大きく後見した天皇だ
出典:Wikipedia

しかし歴史の授業で名前や功績を習っても、具体的にどんな人なのかを知らない人も多いのではないでしょうか。この記事ではそんな天智天皇を、里中満智子さんの作品「天上の虹」を読んで飛鳥時代が大好きな筆者が、政治面や文化面・都市伝説まで紹介していきます。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

天智天皇(中大兄皇子)とはどんな人物か

名前天智天皇(中大兄皇子)
誕生日626年
没日672年1月7日
生地大和(奈良県)
没地近江大津宮(滋賀県)諸説あり
配偶者倭姫王、額田王など
子供大友皇子(弘文天皇)、
鵜野讃良皇女(持統天皇)など
埋葬場所山科陵(京都)

天智天皇の生涯をハイライト

天智天皇の肖像画
出典:ときたんく-天智天皇

天智天皇の生涯を簡単にダイジェストします。

  • 626年:父舒明天皇と母皇極天皇の皇子として誕生
  • 645年:クーデター(乙巳の変)を起こす
  • 同年:孝徳天皇即位、自らは皇太子となる
  • 646年:改新の詔を発布する
  • 660年:白村江の戦いで・新羅に敗れる
  • 667年:近江大津宮に遷都する
  • 668年:天皇に即位する
  • 670年:日本最古の戸籍「庚寅年籍」を作成
  • 671年:弟大海人皇子皇太弟辞退、大友皇子が皇太子となる
  • 同年:病気がちとなり大海人皇子に後事を託そうとする
  • 672年:46歳で崩御する

皇太子の立場で政治を行うスタイルだった

孝徳天皇、実際の実権は中大兄皇子が握っていたという
出典:Wikipedia

天智天皇の政治の特徴は、自らが天皇に即位せずに「皇太子」の立場で行っていたことです。乙巳の変後、母の皇極天皇が退位し後継者問題が出ますが、有力な皇位継承者であるにもかかわらず何故か位を望まず、叔父の孝徳天皇が即位し引き続き皇太子として政治を影から行っていました。

なぜ即位しなかったのかははっきりしたことはわかっていません。幾つかの説を挙げると、「弟大海人皇子への配慮」「豪族たちの抗争のため」「女性関係のため」といった憶測がありますが、どれも想像の域を出ません。結局自らが天皇として即位したのは、乙巳の変から23年後の事でした。

天智天皇の最期の様子と死因

天智天皇の同母弟の大海人皇子(後の天武天皇
出典:Wikipedia

天智天皇は672年に近江大津宮で病のため46歳で崩御したのが定説です。他には、暗殺説も囁かれていますが、都市伝説の域を出ないのが現状です。

日本書紀によると671年の9月に病に倒れ、10月に病状が悪化し重態となり弟の大海人皇子に後嗣を託そうとします。しかし大海人皇子は天智天皇の申し出を辞退、剃髪して僧侶となり吉野に下ったのでした。世間では「虎に翼をつけて放つようなものだ」と噂したといわれています。

壬申の乱の時に天武天皇が兜をかけたといわれる場所
出典:Wikipedia

その後672年1月7日に天智天皇崩御。その後半年間空位のまま、672年6月に大友皇子と大海人皇子が皇位を争う壬申の乱が起こり大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位することとなりました。

天智天皇の墓(天皇陵)はどこ?

山科陵
出典:Wikipedia

天智天皇の墓は、「御廟野古墳」と呼ばれる京都市山科区にある八角墳です。宮内庁によって「山科陵」と呼ばれ天皇陵の中でもほぼ「天智天皇陵」と呼んで間違いがない確実性の高い古墳といわれています。

飛鳥時代の天皇陵で被葬者がほぼ間違いないといわれているのは天智天皇陵と、天武天皇と持統天皇の合葬陵である「野口王墓」だけであるといわれています。7世紀から8世紀の古墳の特徴である八角墳の形状をしており、陵墓の立札の入り口には生前の功績に因んで日時計が設置されているそうです。

天智天皇の有名な和歌

万葉集にも収録されえている
出典:Wikipedia

天智天皇は日本を近代国家にしようと精力的に政治を営むと同時に、非常に文化人でもあり百人一首を含め、万葉集などにも和歌が残されています。今から天智天皇の代表的な和歌を紹介します。

百人一首に選ばれた和歌

百人一首での天智天皇の絵札
出典:usomukiの歴史解説ブログ

「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ 我がころも手は 露にぬれつつ」

訳は「実りの秋の田にある番小屋に私は泊まっている、屋根を葺いた苫は粗く漏る露に私の袖はしとどに濡れてしまった」といったところでしょうか。百人一首の1首目という巻頭の歌でもあります。しかし実はこの歌は天智天皇が作ったものではないというのが有力です。

元々は万葉集の「読み人知らず」として似た歌が収録されていたのが、いつしか「天智天皇御作」としていわれるようになり、百人一首を選ぶときに藤原定家が天智天皇の歌として採ったのではないかといわれています。

確かに番小屋を天智天皇が訪れたとは考えづらい…

一般的には天皇が、農民の苦労を思いやって詠んだものと解釈されていました。そして百人一首の一番目になぜ選ばれたのかも色々な説がありますが、当初天武系だった皇統が天智系に移ったことに由来して、皇統の始祖たる「天智天皇」を冒頭に持ってきたのではないかという説が有力です。

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その他の有名和歌

香久山は神聖な山と崇められ、万葉集にもよく登場する
出典:Wikipedia

天智天皇は恋の歌を残しています。特に“香久山”から始まる歌は三角関係を大和の3つの山になぞらえているとされ、有名な歌の一つです。

  • 「香具山(かぐやま)は 畝火(うねび)ををしと 耳梨(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を あらそうらしき」
  • 「妹があたり 継ぎても見むに 大和なる 大島の嶺に 家居らましを」
  • 「秋山の 樹の下隠り 行く水の 吾こそ勝らめ 思ほさむよは」
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